芦花過ぎて砧辺りの仏かな
芦花公園を過ぎる。環八は相変わらず混んでいる。
砧公園の世田谷美術館の中尊寺展を観に行く。
クチャは天山北路、ポータンは天山南路、その真ん中というのもある。
399年に法顕ほっけんはインド旅行に旅立つ。
インドで6年間「律」を学び、セイロン経由で帰ってくる。
鳩摩羅什くまらじゅうは400年少し前にクチャから長安(401年着)に向かった。
インドと中国を結ぶガンダーラには仏教が盛んであった(ガンダーラ美術、仏頭の発見など)。
※亀慈きじ国の王子鳩摩羅什もまたサンスクリット語を解する大翻訳者だった。戦いで捕えられ長安へ。
妙法蓮華経、般若心経、阿弥陀経などの翻訳。
538年、百済の聖明王、仏像・経典を伝える。
611-15年、聖徳太子「三経義疏ぎしょ」を著す。
三蔵玄奘(602-664年)は629年に(27歳)長安を発ち西域に向かった。
灼熱と極寒の(上下で=100度の差という、17年の歳月)
求道の旅を終え帰りついたのが645年、日本では大化の改新があった年である。
仏像・仏舎利のほかサンスクリット(梵語)の仏経原典657部を携え帰ってきた玄奘は、
以後その翻訳に全身を尽くす。
玄奘三蔵は62歳で没するが、訳業19年、死の間際まで漢訳への翻訳に打ちこんだ。
それでも、持ち帰った経典の約3分の1しか訳せなかったという。
玄奘三蔵が翻訳した経典の数は、大般若経600巻をはじめ74部1335巻にのぼる。
大般若経は日本で最も読誦される「般若心経」となって今に受け継がれる。
玄奘が天竺に向かった一番の目的は法相唯識を学ぶためであった。印度では
弥勒菩薩、
無着菩薩むちゃく、
世親菩薩せしんによって大成され、
玄奘はそれらを学び、
その逸足の弟子慈恩大師じおんだいしに託され、
日本へは遣唐使の僧玄昉げんぼうなどによって日本に伝えられ(717-735年に帰国)、
※聖武天皇のとき右大臣に。国家最高の知恵袋といわれ、千手観音信仰をもたらす。
行基ぎょうき、徳一とくいつ(822年に会津に、最澄との論争が有名である)などへ受け継がれた。
※徳一が法相唯識の系統者で会津に。
※最澄→円仁・慈覚大師は天台宗で円仁は入唐で密教を持ち帰る。下野出身。
★天台寺
鉈なたの痕カヤ一木の仏かな星奔るなり地にも大地に
鉈痕のきのふのけふと思ひきやカヤ一木にゑまふ仏は
「榧」イチイ科の常緑高木
鉈の刻み目も鮮やかにカツラの木の一木造は聖観音菩薩立像である。
ぷっくらとしたお腹、少し腰をひねり、お顔は中央にありがちな柔和に過ぎない陸奥の顔だ。
如来立像にいたってはアニミズム、完全に縄文人の顔に近いと思うが・・・。
★成島毘沙門堂
吉祥天女人若葉に日の光
陸奥みちのくに連れ出いだしてよ成島の吉祥天の腰のゆたけし
吉祥の我にあれかし田村麻呂はた義家がねがひし地なり
さあおいで汝が名はよはきをの子なり木に棲むわれの魂を捧げむ
両腕の先は欠けてしまっているが、なんという安らぎ、なんというくつろぎ、なんとい不動なんだらう。
手を出してその豊満を一ゆすり吉祥天のたのもしきかも
こちらは欅の一木作りであった。
征夷大将軍坂上田村麻呂の鞍馬寺信仰。
そして鞍馬寺には兜跋毘沙門天が古くから伝わっている。
田村麻呂は、エミシ征伐の時、成島のこの地で戦勝祈願をしたのだ。
エミシとの激しい攻防は続く。深く信仰する紀伊の熊野三神に戦勝祈願をしたところ
やがて平定することができ、熊野三山の神威を崇び、その三神を勧請し、この神社を建立した。
兜跋毘沙門天立像が立ち上がってくる。
その帯のところに食い込む鬼の像は、
またユーラシアのはるかヘレニズムからやって来たものでもある。
兜跋は戦いを勝利に導く神、また吐藩(今のチベット)という意味で、
漠然と中国の西方を指していう言葉だったらしい。
伝坂上田村麻呂の剣が飾られている(801年)。
刃先が零れミネにも傷跡が生々しく・・・(?)。
■陸奥の天台宗
最澄の弟子の円仁・慈覚大師は山形・立石寺などの創建で有名。
慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、
東北に331寺余、このほか北海道にも存在する。
関東以北には、日光山、埼玉県川越市の喜多院、福島県伊達郡の霊山寺、松島の瑞巌寺、
山形市の立石寺、岩手県平泉町の中尊寺、毛越寺、秋田県象潟町の蚶満寺、青森県恐山の円通寺など、
慈覚大師が開祖(または中興)とされる寺が数多くあり、
立石寺のある山形県においては、山形市の柏山寺や千歳山・万松寺、
南陽市二色根の薬師寺など10を越える寺を開いている。
これは、慈覚大師が天長6年(829年)から天長9年(832年)まで東国巡礼の旅に出、
この折に、天台の教学を広く伝播させたことが大きな基盤となっている。
838,6月に渡航し、847,12月に博多へ帰還。
「入唐求法巡礼行記」を著す。
ところで円仁が唐から持ち帰ったのは最澄が果たせなかった密教の教学であった。
■浄土教と熊野信仰
900年代半ばころより、
極楽浄土に往生すれば救われるとする「浄土教」の教えが澎湃と盛り上がってくる。
972年(市聖空也上人没)
「ひとたびも南無阿弥陀仏という人の蓮はちすのうえにのぼらぬはなし」
985年「往生要集」(源信著)
1008年、花山天皇没。熊野信仰と花山天皇
1052年、父藤原道長から伝領された平等院を息子頼道は阿弥陀堂に建立した。
「極楽いぶかしくば宇治の御寺を礼とぶらへ」宇治平等院
1058年に亡くなった能因法師は
「都をば霞とともに出でしかど秋風ぞ吹く白河の関」
陸奥は都よりまだはるかに未知でとほくまさしく道の奥の地方だった。
そして、エミシの続き、前九年の役が始まる。
「吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山桜かな」
19歳で前九年の役(1051-62年)に父・頼義とともに出征した若武者義家は
安倍貞任とあい間見える。
1062年、衣川の関が落ちる。義家が追い立てながら
「衣のたてはほころびにけり」と云へば、貞任は馬を止め、振り返って
「年をへし糸のみだれのくるしさに」と。
義家はつがえた矢をはずして帰った(「陸奥話記」)。
※安倍氏と同じ俘囚(中央に帰属した蝦夷)である
出羽国仙北の俘囚清原氏が参戦する事で形勢が逆転。安倍氏は滅亡した。
※安倍氏は函館に渡り、松前藩の先祖となる。
▼清衡の父藤原経清は安倍氏側に参戦したので処刑される。
▼この役において安倍氏に帰属した藤原経清の妻であった安倍頼時の息女は
清原武貞の妻となり(再婚)、藤原経清の遺児(藤原清衡)共々清原氏に引き取られた。
安倍貞任の兜の鍬形の立合雲の毛彫り。
鍬形は両手を広げたほどの大きさ。
神社に奉納されたのか、貞任の人気のほどが偲ばれる。
後三年の役(1083-1087年)は清原家の内紛に義家が介入。
後三年の役は清原武貞には嫡子「真衡」、養子の「清衡」、嫡子だが母は安倍頼時の息女「家衡」といた。
まず真衡(義家が味方VS清衡・家衡)が遠征中に急病で死に、義家は清衡・家衡軍を打ち破り二人は降伏、
義家は二人に所領を分配したが、その後清衡と家衡が対立、
家衡は清衡の館を攻め、▼妻子などの親族を殺害した。
最終的には義家・清衡軍が家衡・武衡(武貞の弟)軍に勝ち、
清原氏と安倍氏の領土を清衡が収めることにことになった。
清衡は元の藤原姓に戻し、藤原清衡となった。
※清原は父を処刑され、血はつながっていないが兄弟相食むこととなり、妻子親族を打たれた。
※結果として武蔵野国・関東に源氏の基盤を築くことになった。
1087年、後三年の役は終り、
清衡は中尊寺を中興・造営し、
敵味方すべての物象に至るまでの平安を願い中世の深い祈りの世界に入った。
基衡が毛越寺を建立し、(基衡は安倍宗任の娘を妻に迎え)
秀衡は無量光院を建立し王朝風の華やかな文化が栄えた。
秀衡が没する1187年までちょうど100年間、陸奥に黄金の奥州藤原文化が花開いた。
★中尊寺
天台宗の開祖・天台智顗ちぎ(528-597)は命日が11/24日。
中尊寺ではこの日法要が営まれる。
野菜の供物くもつ、吹花ふきばな、紙飾り(紙垂しで)の賑やかさ。
それが過ぎると年送りの準備にかかる。
天台の智顗の命日祝ふには紙垂、吹花に野菜賑はう
中尊寺を荘厳する幡ばん、磬けい、磬架、瓔珞ようらく・・・。
磬架の腕の蕨わらび手、ネコ足、
また磬などの魚々子ななこ地に蹴け彫で宝相華唐草文などが細工されていたりする。
四方の柱は南洋でしか捕れないといわれる夜光貝を螺鈿し漆で彩色してある
繊細華麗さは見る者をして言葉を失わせる。
迦陵頻伽かりょうびんがは阿弥陀浄土にゐる半身は人の極楽の鳥で、
天井といわず須弥壇などに描かれていたり彫られたりして仏を讃嘆し続ける姿なのだ。
人々は長い戦いの間、肉親も敵も味方も失い、故郷は荒れに荒れ、戦争に倦み飽きた。
初代清衡は草木虫魚に至るまですべてが救われるようにと願い、
その浄土を恋い焦がれる思いと平和への願いがこの地に仏国土となって地の淵から現れた。