09,4/8(水)晴れ
花あるをふりかへりしてたしかめぬ坂をりてゆく花ひらの路
自證院の桜ももうこればかりと散り始めた。
坂下の交番の角の桜も散り、路にも道端にも花びらが帯のやうになって積もってゐる。
歩くたび花の想ひは少しづゝ
きのふ去年こぞけふ散り初める桜かな
黙もだしつゝ花散るけふの月まんまる
思ひ切り花見るけふの月夜かな
富久小学校のグランドを超えてその向こうのビルの上にほぼまんまるになりつつある
月が春の夜の朧に浮んでゐる。
欲得もなくて桜や花の散る
ただひたすら無心に散ってゐるのである。
久々に聞くルッテメラ花の酒
小宮山さんは明日は鎌倉の桜を愛でに行く。
Hさんは自宅近くの桜を写真に。
聖一が来た。
「ともちゃんにはトイレの掃除の仕方を教わった。
サラダのキュウリの枚数を教わった。
レジの〆方や、ミーティングやお店の色々なことを教わった」
喘息はまだ癒おってゐない。
そんな聖一との出会いはもう何十年も前になるが
「ダメ人間集まれ」という僕がフロムAに出した募集広告による。
面接が終り、どういうわけか彼が働き始めた。
今は何軒かのお店のオウナーになっている聖一はもう50歳になったと云ふ。
けふは散りゆく桜の花の酒、である。
坂のうへ辿りて花のいやいやよ
坂のうへ、自證院の桜にたどり着く。散るのはまだいやいやよ、してゐるみたいだ。
桜咲く杯は右手にあはたゞし(旧作)
桜花幾春かけて老いゆかん身に水流の音響くなり(馬場あき子)
勝頼が滅びし里や桃の花
甲府盆地、新府駅に出る。
桃色に染まった新府桃源郷の先の小高い丘が、武田勝頼が築城しわずか68日で、
信長に攻められ自ら火を放ち崩落した悲運の城、新府城の夢の跡。
勝頼は散り散りになった最後の一族郎党と甲斐大和まで行き着き自刃して果てる(1582年)。
かへらじと 思ひさだめし旅なれば ひとしほぬるゝ涙松かな
安政の大獄に連座して江戸送りとなった松陰は(1858年か)、
萩の町が見納めとなるこの地点で、この一首を詠んだ。
宮沢賢治
停車場の向ふに河原があって
/みずがちよろちよろ流れてゐると
/わたしもおもひきみも云ふ/ところがどうだあの水なのだ
/上流でげい美の巨きな岩を/碑のやうにめぐったり
/滝にかかって佐藤猊嵓げいがん先生を
/幾たびあったがせたりする水が
/停車場の前にがたぴしの自動車が三台も居て
/運転手たちは日に照らされて
/ものぐささうにしてゐるのだが
/ところでどうだあの自動車が
/ここから横沢にかけて
/傾配つきの九十度近いカーブも切り
/径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ
/そのすさまじい自動車なのだ
生前刊行された唯一の詩集「春と修羅」が世に出た翌年、
賢治が花巻農学校の教師をしていた1925(大正14)年から数年の間に書かれたと推定できる。
(賢治の未発表詩発見09,4/8日経)
太平洋戦争1943年
サイゴン(現ホーチミン)からバンコクまで北西へ直線距離で750㌔ほどを歩く決心をした。
カンボジアを横断する。途中バスに乗ったりもした。
スコールのたびに屋根に載せた荷物を車の中に、
人は外に。エンジンがかからなくなるとみんなでバスを押す。
メコン川は橋がなかったが乾季で川が細っており、小さな乗合船で渡った。
タイとの国境の税関では私が日本の海軍士官だと知り、
事務所は湧き立ち職員が集まってきて酒が回され戦勝を祈願する乾杯の儀式が行われ、
思わぬ歓迎を受けた。
日本に対して列強支配から救ってくれるかもしれないアジアの強国、というイメージがあったのだろう。
バンコクに着いたのはサイゴンを出てからちょうど5日目だった。
ほこりにまみれた軍服のまま武官府に主計長を訪ね、
カーニコバルでマラリア患者が多発していること、防暑服が足りないこと、
艦隊本部で補給を断られ、仕方なくサイゴンから歩いてきたことを残さず報告した。
歩いてきた条くだりで、じっとわたしの話に耳を傾けていた主計長の瞳に涙が盛り上がる。
聞き終わった主計長はわたしの手を取り
「防暑服3000着、雨着3000着をすぐカーニコバル島に船で送る、
ゆっくり休んで帰ってくれ」と、巨体を揺らした。
(近藤道生みちたか・博報堂最高顧問09,4/8「私の履歴書」)