09,3/17(火)
しゃんこしてただ死を待つをのみ沖ナンチュウ顔の明るき黍きびざわゝする
(16日「鶴べヱに乾杯」)
コンバインでなく、手作業で刈り取る。刈り入れが終わった畑で片足を放り出し座ったまゝだ。
鶴べヱさんと何か話していたと思ったら、手ぢかのところに散らばっているサトウキビを切り揃え、
束にして渡してくれる。
食べやすく端を削ったサトウキビを鶴べヱさんは食べて「うめへ、黒糖だねこれは」とびっくり。
満足そうなおじさんはまた黙々と自分の仕事に戻る。
まるで隣に鶴べヱさんがもうゐないかのやうで、風景の中に溶け込んでしまった。
サトウキビ畑がざわゝする。おじさんは83歳だった。
1945,4/1日、米軍、沖縄本島に上陸
“鉄の暴風”と呼ばれる弾雨は3月より始まっている。
首里の前田高地での戦いはとくに“ありったけの地獄”と呼ばれている。
手榴弾を投げる。相手の顔が見える距離だ。
投げるものが無くなる。相手側から投げ込まれた手榴弾を投げ返す。
それでも投げるものが無くなる。
最後は手近にある石ころを相手の兵隊めがけて投げつける。(外間はかま守善しゅせん06,6/13日経)
米軍側 ; 1500隻の軍艦、50万人の部隊
沖縄人口=60万人
沖縄住民=12万2000人が犠牲に。
日本軍将兵=9万人
島民義勇兵=2万人
※14歳以上は戦争に行った。
特攻機=1900機散華
日本側戦死者=18万8000人
総犠牲者=24万人
※米軍側上陸合計で=18万人
■1944年、<沖縄第32軍『極秘文書』>「軍官民共生共死の一体化」
戦争はまだ終わっていない。
春の肺なまあたゝかく人を出し
公園に人が出てきた。しかしお店は閑だった。義憲君、Uとの、弁護士のT先生。
★祇園
吉井勇
かにかくに祇園はこひし寝るときも枕の下を水のながるる
夏目漱石
春の川を隔てて男女哉
鴨川を少し上がった御池大橋の西詰めに、
「祇園白川に“大友だいとも”あり、大友に“お多佳さん”あり」と言われた、
お茶屋「大友」の文芸女将、磯田多佳に夏目漱石が贈った句である。
祇園と先斗町に近い。
09,3/18(水)
剪定の桜山形庄内の江戸の銀座にはや桜咲く
雪の山形で蕾のまま剪定されたソメイヨシノが銀座に運び込まれた。
松ヶ枝もめでたさほどやご開帳善光寺さんのご開帳が近づく。
宿坊や松それぞれに悪しからず
「賑わいと祈りの57日間、一人でも多くの方が見えていただいて
仏さまとのご縁を結んでいただけたらと願います」
「どうするの」「こうさ(黄砂)」と云はれ春の夕
妻の洒落であった。海を越えて黄砂が飛んできた。
落ち椿踏み散らかされ夜や明るき
深夜、お店から帰ってくる。寺院の白椿が塀から歩道に溢れている。
花弁が散りに散って、足元を白く明るく照らすほどだ。
09,3/19(木)
文庫本開いて耳鼻科花粉待つ
新宿通り、あっという間に駐禁を貼られてしまった。そういう予感のときは当たるもんだねへ。
春場所の髷ゆくけふのかつを哉
けふは、初かつを。妻にはまだ駐禁の話しはしてゐない。
はなさんか爺などよりも目覚しき桜の花のけふあすにでも
3/24,5日くらいが開花宣言。
路線バス「助けてください」人の手で土手に押しやるえッそんなこと
四国小中学生の通学路線バス。運転手さんは狭心症の発作で意識を失った。
「助けてください」の声に数人の男性が手を貸しバスを脇の土手のほうに押しやり止めた。
全員無事だったが運転手さんはその数時間後に死亡。愛媛県今治市の国道で。
野口シカ
「はやく(帰って)きてくたされ はやくきてくたされ はやくきてくたされ
はやくきてくたされ いしよ(一生)のたのみて ありまする」
「いつくるトおせて(教えて)くたされ これのへんちち(返事)
まちてをりまする ねてねねむられません」
「べん京(勉強)なぼでも(いくらやっても) きりかない」。
離れて暮らす肉親の涙ほど切なくわびしいものはない。
シカは晩年になってから自分で読み書きを勉強し始めた。
息子、野口英世に手紙を書きたいが一心であった。
ヘレン・ケラーと中村久子
中村久子は生まれてまもなく手足の指先が壊疽していくという奇病に罹る。
彼女は手と足の指先が無くなり、ほとんど達磨さんのような体になった。
彼女のお母さんは娘と自分の将来を悲しんで橋から身投げしようとした。
言葉をようやく話せるようになった久子は「お母さん、こわい」と母の背中で云った。
お母さんは久子と生きていく決心をした。
泣いても叫んでも、もう娘のことには手を貸さないようにしたのだ。
やがて久子は、食事のみか、針に糸を通し、人形の衣装まで自分で縫えるようになった。
しかし、久子はあのジンタ流れるかなしい芝居小屋へと売られてゆくのであった。
“だるま女”。彼女の芝居小屋での名前であった。
ところが舞台で手足の不自由な彼女が針に糸を通し、見事に縫い物を完成していく姿は、
たちまちお客の歓声を呼ぶところとなった。
しばらくしてからのことだが、久子は三度目の結婚をし、
講演をして全国を回るようになった。
が、久子には、なにか自分に腑に落ちない。
会場で話せば話すほど、何か自分に違和感を感じるようになっていった。
久子は、講演を一切止め、再び“だるま女”として舞台に身をさらすことにした。
お母さんが身投げすることを止め、自分と私に課したことの意味を感じたのだった。
1937年、「2,26事件」の翌年ヘレン・ケラー訪日。
ヘレン・ケラーが久子に会う。
ヘレン・ケラーは久子を抱き寄せ、彼女の体をなぞっていく。
そして手首から先に触れた瞬間
「私より不幸な人、そして、偉大な人」
と彼女は囁くやうに久子にそう呟いた。
久子の晩年近くの詩、「ある、ある、ある」。
手も足もないのであるが、でも“みんなある”という
彼女の言葉の発露が感動的である。