芭蕉

1680年

枯れ枝に烏のとまりたるや秋の暮

雪の朝独り干鮭からざけを噛かみ得たり

芭蕉は30年代から「翁」と呼ばれている。

延宝81680)年、高弟の服部嵐雪は37歳の芭蕉を「桃翁とうおう」と呼んでいる。

その頃の芭蕉の句、「雪の朝独り干鮭からざけを噛かみ得たり」。

まだ歯が大丈夫だ、というのが印象的。

1689年 「奥の細道」の旅路に出発する。

1693年

「老い」に関する人生観、芭蕉は前年、その辺りを配分「閉関之説」に記した。

「人生七十を稀なりとして、身を盛りなることは、わづかに二十余年なり。

一夜の夢のごとし。五十年、六十年の齢かたぶくより、浅ましう頽ずおれ・・・」

老後の衰えはあきれるほど。それゆえ、

「ただ利害を破却し、老若を忘れて、

かんにならんこそ、老いのたのしみとはいうべけれ」

(どうやら「老荘思想」に基づく無為にして清閑な境地を積極的に説いた)

1694年10月12日

旅に病で夢は枯野をかけ廻る

1694,10/12日、芭蕉は旅先の大坂で没した。門人たちへの遺言状には、

「俳諧は老後の楽しみと申すこと、いよいよ御忘れあるまじく候」とあった。

(牧内岩夫・編集委員09,3/1日経)


イスラム教

何しろイスラムの教義は「異教徒は殺せ」と教え、

(右手に剣、左手にコーラン)を持って

「聖書の真の教えを誤まって信仰している民」に戦いを挑んできた。

(塩野七生)


(宝玉正彦09,3/1日経)

村上華岳25歳「夜桜之図」

大正2(1913)年に描かれた。題材は京都・平野神社の花見の酒宴で、幕末の風俗とも解釈されている。

華岳の内面、人間の性のようなものを感じる。退廃的な気分、官能のにおいがする。

この数年後には、蛇身と化して恋する男を焼き殺す「道成寺」の清姫を描いている。

性の濃密さと哀傷、その微妙さが漂う。

大正時代何よりも人間の個性や内面に目を向けた時代であった。

明治の「父性」の時代に対して、大正は「母性」の時代。


横山大観「夜桜」

「夜桜」を描いた1929年、昭和初期には大観は還暦を過ぎ、大家となって日本画壇に君臨している。

時代も個人も内面より国家を大事にする方に傾いている。


「羅馬展」国家主義

「羅馬展」とは1930(昭和5)年、ローマで開かれた「羅馬開催日本美術展」のこと。

大蔵財閥二代目の大蔵喜七郎男爵が、西洋人日本画の心髄を知らしめたいと企画して、

費用を全額負担した。

総勢=80人の日本画家の力作=200点が並んだと言うから壮観だったに違いない。

「羅馬展」を精神面で引っ張り、画家の人選に当たり、

代表の立場でローマに乗り込んだのが横山大観である。

海外展にかける横山大観の気合をまざまざと物語るのが「夜桜」1929年)である。

近代的な感覚でかつ大和絵の作風、豪華、盛大である。

⇒横山大観「瀟湘八景」、前田青邨「洞窟の頼朝」、竹内栖鳳「蹴合」、宇田荻邨てきそん「淀の水車」・・・。


「うれしいにつけ悲しいにつけ、花はわれわれの不断の友である。

われわれは花とともに食い、飲み、うたい、踊り、たわむれる。

花を飾って結婚し、洗礼式をおこなう。花がなくては死ぬこともできない」と、

『茶の本』に書いたのは、大観の師である岡倉天心だった。

茶とともに花を愛し、大事にする日本文化を称揚している。花の役割をほぼ言い尽くした名文だ。

「彼ら(花)は人間のように卑劣ではない。花のなかには死を誇りとするものもある――

たしかに日本の桜の花のように、風に吹かれるままに身を散らしていくものはそうなのだ」


「太平洋戦争末期の日本軍が行った自爆攻撃、つまり特攻の最初の攻撃隊は、

江戸時代の国学者、本居宣長

「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」にちなんで

「敷島」「朝日」「大和」「山桜」と名付けられた」小川和佑(文芸評論家)

『桜と日本文化―清明美から散華の花へ』