太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ。
1930年か31歳の三好達治は「測量船」で詠った。
「測量船」は蕪村の「夜色楼台雪万家図」を見て相を得たという。
さてこの歌は北の雪国の歌である。雪漫漫。雪や「こうこう」のふかいふかい雪に閉ざされた国の。
太郎を眠らせ、次郎を眠らせた屋根の下には屈託の節くれだった大きな手の父がゐる。
そして、どうように大きな母性の包み込むあたたかな母がゐる。
忍耐とあきらめ、小さなささやかな仕合わせ、満足と、
やがて待ち来つる春の予感がしんしんと寝静まったこの家屋の下には感じられるのである。
昭和の初めのころは確かに家々は貧しかった。
でも正直で、わかりやすく、不便であったが、勤勉で助け合いぬくもりがあった。
井戸の水汲み、朝の掃除、朝食前のうさぎやヤギの餌やり、
などなど、子どもでもしなければならない家の仕事が連綿とつながっていた。
冬になれば手が皸れるわけだ。
でも鼻汁をたれ、半纏の袖てからせて、しもやけの手で、夕方までしっかりと子供同士で遊び呆けもした。
かちんかちんな凍ったズボンのまま炬燵に尻まで入れてぬくまってゐると、
やがてうつらとして、ほんたうに太郎の気持ちに次郎の眠りに誘われる。
・・・春の日をひと日旅ゆき/ゆくりなき汽車のまどべゆ
そこここにもゆるげんげ田/くれなゐのいろをあはれと
眼にむかへことにはいへど/もろともにいざおりたちて
その花をつままくときは/とことはにすぎさりにけり
ははそはのははもそのこも/はるののにあそぶあそびを/ふたたびはせず
『いにしへの日は』三好達治
母恋の歌はいつまで経っても、である。
もはやそのやうな田園風景はない。いやあったとしても
その景色の中で遊ぶ「そはのははもそのこも とことはに」過ぎ去って、
「はるののにあそぶあそびをふたたびはせず」なのである。
何があったのか。
戦争はおほきな物語のやうにあらゆる物事と、あらゆる人々に降りかかり、
すべて地表にあるものと、関係を変えていった。
戦前、昭和8年がひとつのピークだとすると、
焼け跡からそれと同等の暮らし、GNPになったのが朝鮮特需を過ぎて昭和30年。
1955年であった。翌年下村治さんが「もはや戦後ではない」と経済白書で発表する。
「55年体制」が始まったこの年は集団就職が始まり、都市では家電ブームが広がりつつあった。
「泣けたなけた こらへ切れずになけたとさ」春日八郎
「おいら貧しい靴磨き/ああ 夜になっても帰れない」宮城まり子『ガード下の靴磨き』
「月がとっても青いから 遠回りして帰ろう」菅原都ゝ子
ソニーが真空管にかわってトランジスタラジオ「TR-55」を発売した。
あらゆる豊かさへの萌芽が現れつつあったこのころ、
農村からは多くの若者が都市へと向かって社会的移動を始め、
しかし、都市はまだ戦争の名残がまったくなくなったわけでもなく、赤線、青線もまだあった。