「早く来て見ろ おらあ困ってる 間に合わなかったぞ」

米一じいさんは息子の嫁さんをせかす。でも、粗相してしまったのだ。

息子の正雄さんはそんなじいさまを疎ましい目で見やる。

嫁の小夜子さんは米一じいさまを連れてお風呂場へ。

「安気したよ いやなこんぞ なは でえじなもんつっ転ばして なは」。

「ほんだって 年取ってみろ わかるぞ」

とよろよろ風呂場から出てきて息子に云ふのであった。

そんなじさまも米寿を過ぎてからさらにめっきりと衰へ、まだらに認知も入ってきて、

呆けとともにあっという間に天国へ召されてしまった。


さて、その正雄さんも、もう米寿を過ぎてしまった。


「大正、昭和、平成と三代にわたる時代の節目に活きて来た事になります。


昭和二年に着物に小さな袴を着けて小学校に入学、

その年が昭和天皇の即位のご大典で全国奉祝ムードに包まれて

我が部落でも当時の青年団が竹で編んだ鯛と地球儀の御輿が出ました。

ほどなく満州方面の事件が怪しくなり国は軍事一色に包まれました。

二十歳の徴兵検査には補充兵となりその後は時どき在郷軍人による訓練があり

赤紙による召集令状を受けました。

万歳の声に送られ悲壮な覚悟で東京の工兵隊に入隊、

新兵教育もそこそこに玄界灘を渡り東満州の部隊で厳しい訓練の毎日でした。

戦局は日増しに不利になり三月ついに部隊が移動、

貨車と船で中国大陸に入り揚子江を登り漢口から前線で初めて弾の下をくぐりました。

連日の米機と敵襲にやられ、ついに小休止して居た建物で爆撃を受け、

幸運にも紙一重の差で軽い傷で命びろいをしました。

遺体を涙して野天で荼毘し遺骨を抱いて漢口に戻りました。

前線での疲れと傷でどっと四十度の発熱に即入院、

各地を転院して山形の温泉で療養し、終戦で九月に帰宅しました。

多くの戦友を失い、悲惨な戦争体験を孫にも折にふれ話し、

絶対に戦争のない平和な国でなければならないと、

以下は皆様のご承知の通りです。

不自由な体ですが今しばらくお世話になりますのでよろしくお願いいたします」

深澤正雄「にしあらい」(08,5/31号)『米寿によせて』(大正9年6月9日生まれ)


二十数年前に米一じいさんを送った正雄さんもいまは88歳のじいさまである。

普段はまったく寡黙であるが、ここに心の奥底にひっそりとしまいこんだ

深い戦争の傷跡がある。

「よっきょく」と云ふ。まさか自分があのやうなじ様にならうとは考えだにもしなかった。


けふは寒い冬。日陰に入るとそこいらじゅうが霜柱である。

じい様がうつらする健康椅子からはガラス戸越しに葉がすっかり落ちたぶどう棚が広がる。

とほくの八ヶ岳は峰に銀色を置き白い雪雲を秩父の方に引っ張ってゐる。

じ様は足元が冷へると云い、炬燵にあたがりたがった。

翁曰く炬燵はいゝと立たずなり

おじいちゃん(88歳)ももう炬燵がいい。

座るのはともかく、しかし、立ち上がるのが大変なのだ。

まずうつ伏せに、炬燵から両脚をよっこらしょと外に出し、

右手をまず炬燵のヘリに置き、力を込める。

さてしかし、上半身は炬燵に平行して起き上がるが、だがそこから先、立てないのだ。

「まるでぼごのようさ」とば様は云ふ。

脇に腕を入れる。掛け声を掛けながらなんとか漸く立ち上がる。

杖を手近にし、それでも数秒は気持ちを整える。それからゆっくりと歩みだす。

炬燵ほのぼの春夢ではない。


ままことを炬燵ですなる老ひふたり

「はい あーんして」の類である。ば様があれこれ、じ様は偉さうにしながも従うしかない。


健康チェアーと云へば、ここはじ様のサンクチュアリ。新聞を読み、テレビを見て、

そして、今でも脚を引きずりながらでも丹精するぶどう園が眼に広がる。

ねぶりてはさて起き出だし日時計を老ひに合はせてまた眠りけむ

気がつけばまた眠ってゐる。

生まれたての赤ちゃんは本当によく眠る。

ネコもよく眠るが、うちのじ様もほんたうによく眠るのである。

そうやって体の中も、頭の中も何かに対して次第にやはらかくなっていくのだらうか。

戦争のことも、米一じさまのことも、そして自死した息子のことも忘れやっていくのだ。


小夜子ば様も云ふ。

おきるのどうのってむじむじするじゃ」「ぼごのようになってな」。

じ様の体はいまでは自分のもののやうではない。カフカのいも虫のやうになって、

ベッドの上で深いため息をついてゐる。

「お風呂だってね」。

じ様は、もう3年ほど前からおしっこ袋を外に出してゐる。

ウロ・ガードのままへえるんだよ。

「でも、えらいこんだよ しらんまに抜けたりして」

さういうこともあった。寝ている最中におしっこ袋のお腹の栓が抜けてお腹が濡れてしまった。

「はばったいとしか云はないけれど 我慢強いからね 昔の人は」。

「あんときは そうさ 布団はそっくり綿から作りけへした」


じ様はまたやってしまった。


物忘れまた排泄のままならぬ嘆かふ義父の杖のその先

就寝前に焦ってお漏らし。夜中の2時ころもう一度しくじったとのこと。

ば様はその都度下着を洗濯。ウンチは手洗いでなくてはだめだと云ふ。

そうさ 自分のものだっておんなじ臭いだ」

濯いでは流し、かなりの時間だ。夜の寒きに物干しへ干しに出る。

素手で洗うとね、と云って両の手の甲を灯の下に出す。

「こういう風につやつやするの」と笑った。

熱燗が呑みたい、と、五勺ぐらいの量をグラスに。

てき面だった。ちびちびおいしさうにしたのがまずかったのか。

■農村は、また、農は少しでも「貧」ではないのである。

憂うらくは「生老病死」のうちの病と老いと最後にたどり着く死に関してなのである。

野菜は裏の畑で採れる、コメはそこにある。

カボチャ、ジャガイモ、サツマイモの類、ほうれん草、小松菜、京菜の類まで、

よそ様に差し上げても余るほどの量である。

胡瓜、トマト、茄子などは畠のままで腐らせるほど、

要は老い二人の家屋においては都市的経済とは及びもつかないほどリッチなのである。

「減反政策」「補助金」「耕作者主義」「土地所有者税の優遇」・・・。いびつである。

本当に手を差し伸べなくてはならないのは、

他の産業者と同様に国民全体におけるフラットな社会保障の整備なのである。

とくに農村においては都市部とは違って「生活保障」としての生涯年金ではなく、

どちらかというと「医療」「介護」そして「終末」である。

限界集落、跡継ぎの問題、耕作地放棄は農村部において、

家族消滅は都市共々の問題であるが、

農村部においてはそれらの問題が特に顕著であるように思われる。



じ様を墓に送って、さて、その次の自分はどうしたらいいのだろう、と云う問題である。

じ様の食事の世話、洗濯、お風呂、睡眠・・・

つまり生活の全般を愛情と長い習慣の積み重ねで、

むしろ信仰に近い形で日々繰り返され続行される。

しかし、気がついたら一人ぽっちで大きな古びた家に取り残される。