景気は貨幣的現象なのか、

財政的欠陥なのか。

1990年代の宮澤首相から森政権にいたるまで、

貨幣的現象ということに気が付かず、

というか政治は行財政改革ばかりに気をとられ続け、

まさしく政局の争いばかりで、

貨幣現象を無視した。

膨大な赤字国債の累積にいたったわけだ。

(さいわい今次の世界のように他国からの借金ではないだけありがたいが)

公明党にいたっては99年の地域振興券の件もある。

学習能力がないと言うか、

ほとんど経済原理を無視しているとしか言いようがない。

(設備(資本・手元資金はある)、労働投入量(質、量)、売れる市場(すぐ目の前に))

(一度成長の蜜の味を知ってしまうと、今日よりは明日をもっと、となる)

地政学的に今は、渤海湾経済区と、北朝鮮の背後のハバロフスクとか、

サハリン地区とか、だから日本海沿岸の有力都市に集中的に投資だね。

サハリンⅡの事業規模が=ほぼ2兆円弱である。

私見では、「米百俵」の精神だね。

2兆円は真水で北朝鮮に突っ込む。

北朝鮮はGDP=300億㌦(約3兆円)とも云われる。

人件費は中国の6分の1だとも。

戦前からの立派な鉄鉱山もある。

商いの原則は「売れる所」に出る、ということ。

一衣帯水、何てもんじゃない。手漕ぎ舟でも日本に越境。

経済的にも、政治的にも行き詰っている時がチャンス !!

⇒えげつない考えだけれど

2兆円なんてすぐに元が取れる。

⇒「都市の空気は自由にする」

拉致なんてすぐに解決の方向に。

1926「自由放任主義の終焉」(ケインズ)

1936「雇用・利子および貨幣に関する一般理論」(ケインズ)

→ケインズは新古典派経済学者から不均衡動学の創始者へと変身した。

市場はいつも失敗する可能性を秘めている。

そして経済のなかの主体である人々の行動は

必ずしも合理的ではない。

将来は不確実である。

政府による関与と、財政出動による需要創出。

一方、ハイエクは理性による市場への関与は、

人間の傲慢であるとした。

「価値」は情報である。

「法」も「慣習」も人々の行動の整合性を誘導しつつ微分的である。

政府に集中させ、政府が例えば情報のすべてを機能させるのは不可能だ。

「わたしなら入札にするね」(レオ・メラメド、シカゴ・マーカンタイル取引所会長)。

価値は価格に収斂する。

さてしかし、“市場の見えざる手”による均衡は果たせるのか。

「投機こそ市場を安定させる」(ミルトン・フリードマン)

だが、マエストロ、グリーン・スパン元議長もついに

「市場が自己規制するとの信念は間違っていた」と吐露した。

福音を説く伝道者だったのか。

あるいは情報の非対称、つまりはなから詐欺者だったのか。

CDO、CDS、モノライン、レバレッジ、特定目的会社、SIV・・・

相対(モニタリング)から証券化市場取引へ、

リスクの分散ではなくリスクを不明確にし、隠し、ミンチ、

ハンバーグにして仮想市場で売りまくってしまった。

均質化、効率化された商品はそれだけグローバル化されやすく、

ウィルスのようにパンデミックしてしまった。

考えられる限りのあくどさを集中しての今回の金融工学。

アングロサクソンとは今さらながらおそろしい人種である。

付加価値は本来、単純には設備投資から生まれる。

金融はあるところから無いところへと効率よく流す、

インフラストラクションであるはずだ。

堂々巡りしているだけでは価値は生み出されようも無い。

アメリカの凋落は覆い隠しようも無い。

「民主主義と市場主義」のワシントンコンセンサス

に対し「北京共識」は必ずしも民主主義とは異なる。

ロシアもリビアもイタリアも市場で結びついたかのようで、

値段を覇権的圧力に利用しようとしている。

一極が喪失、メルトダウン、多極化は今の流れだ。

資本主義が新しい次のステップへの過程に過ぎないなら、

人類は叡智をふるって次なる「理念」新たな依ってたつ「価値」を

哲学する時期に来ている。

智笑

(溜まってたな、ちょっと)