夏が過ぎてゆく。午前中は喧しかった蝉も、午後になると少しくおとなしくなった。連日の雨で鳴くことさえもまごついているかのようだ。案の定、夕刻より空は再び重くるしくなり、雷が雲の上を走った。雨が束になって降ってきた。蝉ばかりか、虫の鳴き声さえも途絶えてしまった。

 「正体を見たり安倍氏に蝉暑し

終戦日は本当に日本中があたかもそう決められたかのように暑い一日だった。小泉元首相が、安倍ちゃんが、野田聖子、保利耕輔、大田何某等々・・・。何を考えているのかまったく分からない。

 「美しい日本」と言われるまでもなく、日本は津々浦々、大和しうるはし、である。自分の足で行ってみたらいい。古びて今に新しい京都、奈良をはじめ、熊野紀伊、芭蕉翁が訪ね歩いた歌枕の陸奥、象潟から越後、親不知、石川、大垣。旅人といえばばせう翁ばかりに限らない。みな先人の肩につかまりつ、後ろから来る人に肩を掴まられせ、それこそは蓮如の唄の如くに無限に続いているけふなのである。

 「礼」とは何ぞや。2002,2月より日本は緩慢な成長軌道に乗った。さて、中国はWTOに01,12月に加入。98年のアジアショックの後、あるいは91,12月のソヴィエト崩壊後、冷戦終了後の世界は多くの参加者が自由経済のプレーヤーとなった。さて、08,8月の日経新聞では中国との貿易量が米国を超えたことを告げている。何をか云はむや、である。生きる、働く、暮らすのごく普通の民草にとって、国家が一番必要とするのは、けふのパン、けふのジャガイモ、けふのご飯である。靖国に行くとはきはめて単純にその「おまんま」の元になる、お世話になっている国に対して、足で砂をかけるようなものではないか。悪いことをしたら「ごめん」を云う、お世話になったら「ありがてふ」を云う、精神ではご飯は食べていけない。昔の加藤全権大使が言ったように、戦ささへGDPなのだ。そのおまんまの頂いているアジアの国々の人たちに対して、あんまりな無神経、非常識といはざるを得ない。国の肝心な人たちが自ら「礼」を失してしまった。美しい国をないがしろにしてしまった。

 さてついでと云うならば、その方たちに問いたい。例えば野田大臣。上智大学ご卒業ときいた。自我が目覚めるのは早い人では十五や二十歳。失礼ながらその頃から靖国には詣でていたのだらうか。夏の礼大祭は言うまでもなく、春は花、屋台ばかりか夏は盆踊りまで、それはそれは賑やかなものだ。安倍元総理にも伺いたい。まさか政治家になってから靖国詣でを始められたわけではありますまい。遊就館には何度ほど見学に見えられたのか。血染めの、あるいは特攻隊の方々の日記等、平たく云ってその展示物のすべて、展示方法、寓意は戦争に対する謙虚な姿勢が全面的に表れているとは云いがたい、と私は思うのだが。特に総理を去ったから、はい、靖国に行きますでは、そんな政治は私どもは要らないのである。(8/31)

靖国神社]静謐のなかに存在すべき。

神道では自然や先祖を敬い、明あかき、清き、直き、正しき心を求めるだけだ。山川草木悉皆仏性、死ねば皆自然に帰り、神となる。

1869,6月・戊辰戦争の「官軍」戦没者(政府側)を慰霊する『東京招魂社』として東京・九段に創建。設立の中心になったのは旧陸軍の創立者である大村益次郎。

1879年・靖国神社と改称.「靖国」とは「国を安らかにする」という意味があるそうである。

自刃した西郷は「国賊」となった。政府軍兵士6971人を祀るために「東京招魂社」は天皇に直結する「別格官幣社」となり、そのときから神官が置かれ、神社の形を正式に取るようになった。※初めは陸軍幹部が祭祀を取り仕切ったのである。※西郷軍は政府軍を上回る死者。

※「別格官幣社」として陸軍省と海軍省の共同管理におかれるなど、「国家神道」の中心施設であった。

「靖国で会おう」▲死ぬというのは神に近づく――イラクと同じ

「英霊」「死んだら靖国で会おう」「死ねば靖国の神様になる」・・・と信じて戦地に赴いた軍人も多く、特別の慰霊の場になっていく。 

1978,10月・A級戦犯で起訴されそのうち絞首刑などに処された14名について合祀。(判明したのは1979年)「東条らは戦勝国に一方的に断罪されて国に殉じた昭和殉難者」として扱われた。

■246万柱─最初は戊辰戦争の戦死者だったがその後さかのぼって明治維新の志士を合祀。吉田松陰、坂本竜馬(西郷隆盛は含まれない)。基本的には戦死、戦病死した軍人・軍属が対象。現在の祭神総数は246万柱。東郷平八郎は戦死者でないので祀られず。乃木大将も含まれず。▼広島・長崎・東京大空襲の犠牲者らは対象外。沖縄の「ひめゆり部隊」の女子学生や学童疎開船「対馬丸」の犠牲者は祀られている。約246万6500柱(2004,10月現在)

政府・国と雇用関係にあった人たちのみ。

マッカーサー(靖国神社焼き討ちに対し)─「自然の法に基づいて考えると、いかなる国家も、その国家のために死んだ人々に対して敬意を払う権利と義務があると考える。戦勝国、敗戦国にかかわらず平等の真理でなければならない」

戦前は☛戦前の靖国神社は陸海軍が共同経営する「軍事施設」であった。遊就館の展示内容には、その名残が感じられる。

戦前は☛護国神社を内務省、靖国神社を陸・海軍省が管理していた。→戦後はともに宗教法人となった。

麻生太郎外相06年─<非宗教法人化>の論に対し、「非宗教法人化は霊魂を認めないということで、靖国はただの戦争記念館になってしまう」と懐疑的。06,8/13日経

1945年12/15✱「神道令」→信教の自由と宗教法人(昭和21年 ▶政教分離)へ。

進駐軍の指令で➠国家神道を禁じる。一宗教法人になる。一宗教法人として特定の宗教観に基づき活動している。靖国の招魂儀礼は日本古来の伝統神道とも異なり明治期に考案されたものという。分祀しても御霊は靖国に残る、そうした解釈は神道の私的な解釈です。

☛軍国日本の象徴

☛遊就館〓武器の系列

1946年東京裁判─■人道に対する罪■平和に対する罪

1947年昭和22年─☛日本遺族厚生連盟発足(連絡所は靖国神社内に置かれる)→日本遺族会へ。

遺族会は当初から遺族への経済的支援と、英霊の顕彰という大義名分の双方を国に要求。

1951年平和条約─☑『平和条約11条』を国家として受諾した。●再生の出発とした。

「── accepts the judgments」・・・戦勝国による裁判。

ダブルスタンダード─☑国際法では受諾したが【国際公約】、国内法では犯罪者として扱わない。

1952年平和条約発効─➠ようやく国による遺族への経済支援の道が開かれる。

1953年─➠日本遺族厚生連盟は日本遺族会へ改組。



                [千鳥ヶ淵墓苑

※墓苑が対象とする海外での戦没者。国内での空襲などで犠牲になった民間人はどう扱うのか・・・。

第二次大戦中海外での戦没者は=240万人

政府による海外戦没者の遺骨収集は、1952年度に南方諸国で始まり、厚生労働省によると、これまで31万柱が持ち帰られたが、240万人とされる海外戦没者の半数の160万柱が未送還とされる。

1970年)



✸父は(西部ニューギニアで戦死(当時34歳))第六飛行師団第13野戦飛行場設定隊の中隊長だった。中隊の約200人は1944,4月に連合軍が上陸したため密林を西に約300㌔転進。父は体力を消耗し、たどり着いたサルミで戦病死した。飢餓とマラリアに苦しめられ、生還者は3人だけだったという。06,8/26日経・小塚興治(67歳)大津市在住・遺骨収集─06,1月にも141柱を持ち帰ったが、まだ2万柱を超す遺骨が野ざらしのまま。「モノではなくヒトとして尊厳のある扱いを受けるべきだ。国が送り出した兵士を国の責任でお迎えしない限り、戦後は終わらない」