810年、空海(37歳)は東大寺・別当(最高位)に就任します | 神聖寺 隆健 090-3085-9732

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神聖寺 隆健 (しんしょうじ りゅうけん)
真言宗、法事と供養、仏教世話ばなし



上の梵字は私、隆健の筆による、サンスクリット語・般若心経からの一文字です。
ブログを途中からお読み頂いた方々の為に、過去のブログを、改めてご案内させて頂いております。なお、私のつぶやきは実生活には何の役にも立ちません。謝謝。

更に、つぶやきを進めましょう
空海の生涯について、少し、過去に戻ります。
入唐前、804年4月に東大寺で得度。
僧名『空海』を称す。
〔この当時、巷では、実力も知られず、まったく無名でした。第一、空海はそれまで行方不明だったのです。ある日突然現われ出でて東大寺で得度となります。それなりに有力者が知己だったのは間違いありません・・・〕
804年7月6日、肥前国松浦郡田浦港から、唐に向かう遣唐使船に乗り込み、出航した時は31歳。得度後、まだ三ヶ月しか経っていませんでした。

その空海が、わずか2年で国際社会『唐の都』の晴れ舞台で『金獅子賞』を取って凱旋したのです。
日本国内では、誰もが?・?・?でした。
有り得ることではないからです。
誰もが考えたのは、空海とはペテン師か?だったでしょう。
さらに、朝廷(公家・貴族)・お役人では、空海のお土産品の価値が良く分からなかったのです。
空海の『御請来目録』・お土産品の価値を真に理解したのは天台・最澄ただ一人でした。
ここに、生涯のライバルたる最澄の尽力(朝廷への働きかけ)によって、帰国後、4年を経て、『空海』の『上京』が許されることとなります。
『空海』は大きな・大きな借りが『最澄』にできました。
結果、『空海』は、持ち帰った『経典』の数々を無条件にして『最澄』の求めるままに貸し出していくことになります。
〔借りは返さねば男じゃないです〕
〔後年810年、この空海(37歳)が東大寺・別当に就任します〕
〔804年(得度)から810年までの僅か6年間で無名の僧侶が、国内における僧侶の最高職(別当職)に就任します〕
切れ者、京都天台・最澄の成長に脅威を抱い『南都六宗』(奈良)の権力僧侶たちが、『南都六宗』(奈良)の将来をかけて、スーパースター空海に救いを求めたのです。
このときには、朝廷も公家も僧侶たちの誰もが空海の仏教理論知識の実力(う~ん・・こいつは凄いぞ~と)を認めていました。
『即身成仏義』は『即身成仏』の理論と実践が著述されています。
時間はいらない、こころの在り様ひとつで、人は誰でも、凡夫のこの身このまま『仏(ブッダ)・覚者』になれると主張します。
それまでの南都仏教は永遠に『仏(ブッダ)』にはなれない理論(三劫成仏)だったのです。
さて『仏(ブッダ)・覚者』になれるとは、どのようなことをいうのでしょうか?
このブログは空海思想もご案内しながら、つぶやきを進めております。