王様の耳は驢馬の耳 | 王様の耳はロバの耳

王様の耳はロバの耳

普段口には、しないで
済んでいることを
こっそりと、呟いて…

人は、誰もが
愚かしくも、
あまりにも、簡単に

与えられ具えていた、
徳や尊厳を自ら失くし
迷ってしまうことを
私が忘れぬ為に書く
普段は口にしないこと。


誰かに、
親切にすることは
気持ちの良い事だろう。

誰かに
親切にしていることを
第三者に知られ、
労われると

照れ隠しか
誘い水と思うのか

自分のことを
もっと知って貰おうと
するかのように

自身が、
誰かに、どんな親切を
行ったかを
語り出してゆく。

大した事じゃ無い。と
自ら、言いながら

大した事じゃ無い。と
云うだけでなく
事細かに、話しては、
 
第三者に労われ

大した事をしている。と
言われてゆく。

誰かに、心を配り
いつも通りに
親切に務めようとして

いつも親切に
している相手が、
自身との約束を
忘れていると

心配している。と
第三者を前に
自らから、口にしながら
最近の相手のことを
語り出す。

話を聴く
第三者は
咎めることを
言わせると

相手の擁護に周り
親切な自分を
アピールしている
つもりなのか。

いつも通りの相手に
親切を働きながら

第三者との
会話のネタに
いつもの相手の話を
のぼらせる

やがて必然的に
話を聴く第三者は
相手の親族は
何をしているのか?と
声に出す。

すると、相手の親族や
通帳やお金の動きまでを
第三者に聞かせてゆく。

当人が混ざる時には
しない話までを語り

そうした相手に
どれだけ自分が
気を配り
親切にしているかを

第三者に
聞いて貰うことに
慣れてしまうと
話す内容はもう、

ただの親切でも
心配りではなく

心を煩わせて
いるかのように
聞こえてくる。

親切と云うには
角が立つほど
エゴが突出してしまい

聞いてて
快いものでは
なくなって

誰かに
何かしてやっていることの
不平、不満、愚痴に
変わり果て

なんで自分ばかりがと
一人の時に
感じることの

毒を自ら
吐き出しては
自分ばかりが…と
思うことないように

バランスを取り
綱渡りするように
生きているのが
見受けられてくる。

とても人間らしい
有り様に思う。

偶々ではなく
何をすれば
そう成ってしまうかは
必然的だけれども

灯台下暗し
当人ばかりは
気付けない。

指摘されても
直すどころか
火に油に成るだろう。

折角の善行が
もったいないことに
成ってしまっているけれど

人と云うものは
受け止めれずには
直せない。

精神の病いと
言われる人の
有り様と等しく

自分自身の有り様が
歪んでいることを
自分自身が
受け止めれずには
直せずに

悪化したように
見受けられて
ゆくことも多い。

それでも
大半の人は

他者の
どのような
有り様にも目を瞑り
黙して
礼を払って敬って

第三者のように
讃えながら接する。

それも十分、
親切なことに思うけども

常日頃から
他者にあれこれと
干渉しては
上記のような
有り様の自分の行いを
自ら、親切と
呼称してしまえば

上記のような
有り様では
一人では、
ひもじく感じる時が来る。

結局、人は、皆
誰もが、一人の時に
自分の有り様を定めてゆく

自分ばかりが…と
本末転倒に
思ってしまいそうに成る
業の深い者も

ソコから
どのように
生きることを選ぶのか

初心に変えれずには
恥の上塗り

初めは本当に
快い、善行だったものも
エゴに我欲に汚れ
挙げ句、呪い憎しみ
怨念までもを
己自ら纏わせて

その有り様に
自分が気付けぬのも
第三者による
親切に生かされ
支えられているからで

自分ばかりが
そんな思いを
している訳でもないのに
飢えてしまえば独裁者。

こうするのを
親切と呼ぶだろうと
矛として掲げようとも
意味はない。

大事なのは

自分が、
誰かに、施している
親切ばかりではなく

今、自分が
そのように
振る舞うことが
出来ている

自分以外の
他者の親切、施しに
自分自身が
気付けなければ

泥沼に嵌るように
自分の業に
呑まれ溺れて
一人、この世のどこかに
沈んでいってしまうだろう。

感謝を覚えるのも
伝えるのも当たり前。

それが、礼で
それも、親切。

与えられるものを
貪っては

ほら自分が
施す相手を
怨み観ているような
そんな姿を
今の自分こそが
していることに
気付けない。

自身に具わる
主観というモノも
有り難く

今の自分自身の
有り様に
気付かせてくれるモノ。

跳ね除け
掻い潜り
押し退けて
強引に進めようとしても

ただ、そう振る舞うことも
他者の親切に依って
赦されているだけだ。

人の親切に
気付けずに
この世界で飢えるなんて

人間らしくも
もはや
人には見えない人の姿。

他者の有り様に
学ばせて貰えることで
他者を心から敬い
礼を払い

親切を他者に
施すことで
返礼させて貰えることで
快く、今を過ごし

人は、人として
生きてゆくことが
適うのだろう。

他者の有り様に
学ばせて貰おうとせず
他者をそのように
捉えることこそ
他者を馬鹿にすること。と
主張する者は、

世知の浅い
無鉄砲な若人のように
多くを侮りながら
人間なのに、

まるで
キリギリスのように
生きようとしては

鼻っ柱を折られ
一人、自分ばかりが…と
悔しい思いを抱え

人間、皆が
立ち向かう壁に
自ら、ぶつかりに
行って見せては、

今生と云う
釈迦の掌の上で、

人間らしく
覆いに迷い
覆いに悩み苦悩し
覆いに
葛藤してみせるのだろう

どのように
生きようとも
人間という生き物は

群れに甘んじれば
籠の鳥のように
自らに不自由を強き

一人の時に
成長してゆくものだろう。

他の誰が
どのようにあろうとも
自分が自分を
責任もって一人調え
生きてゆけるようになって

肩の荷が
軽くなったように
感じることが
適うのだろう。

肩の荷が
軽くなったように
感じるのは

長い長い葬列の
最後方に自らが並び
長い長い葬列に並ぶ
全ての人間が

同じ荷を背負い
生きていることに
気付けるからだろう。