家族の形は
様々で
どこの家庭も
他所とは違うし、
どこの家庭にも
他所では言えないことが
一つはあるし。
どこの家庭でも
親族も含めれば
恥部がある。
裕福だろうが
貧しかろうが
変わらない。
親族と
関係の深い
家庭もあれば
親族と
関係の希薄な
家庭もある。
高齢者の居る家庭では
親族との関係が
親しかったりすることも
多いけれども
もちろん
高齢者の居る家庭でも
親族との関係が
見えない家庭も存在する。
親の居ない子供も
兄弟のいなかった子供も
家庭を築くし
一人っ子が増えれば
増々、
親族の見えない家庭は
増えるだろう。
親族が居ながら
希薄な関係であれば
親族と親しい関係性の
家庭が眩しく感じる人も
当然現れる。
親の居ない子供や
親と上手くいかない子供が
他所の家族を羨むように
寂しさ、孤独、
侘しさに
挫かれそうになった時
人は、皆
自分本位に陥って
自意識過剰に
自己中心的に
自己主体に
この世に一人
自分ばかりが…と
この世に一人立つ
他とは違う自己を
俯瞰させ
一人で立たせて
ゆくのだろう。
他所を羨み
今の自分の有り様を
自分が同情し続ければ
いつでも、いつまでも
悲劇の真っ只中の
主人公のまま
神や仏、
産み落とした親へ
愚痴や怨みをボヤいては
責任転嫁ばかりしながらも
恥ずかし気もなく
厚かましくも
愚痴や怨みをボヤいた口で
神や仏
産み落とした親や
さらには第三者にまで
縋り、乞い
救い求める者も居る。
この世に
生を受けながら
自ら、生きようともせずに
我が身可愛や
傷つくことや失敗や
遠回りすることを損に思い
自分に無いモノを
持っている者が
楽をしているかのように
捉える真似をして
さらに醜い性根を
露わにしてゆく。
この世に、
自分とは違って
楽をしている者が
存在しているかのように
捉えてしまうは
人として生きることを
挫折してしまった
人でなし。
この世に
苦や恥、悔しさ、孤独を
味わったことのない者は
存在しない。
赤子であろうとも
苦を知っている。
恥ずかし気もなく
他所と自分を比較して
自分本位に
自意識過剰に
自己中心的に
自己主体に
自分自身を苛む
悲劇の主人公は、
自分自身が
他所を
羨んでいるつもりだから
気付きもしない。
楽をしているなんて
侮辱でしかないのに
いつも幸せそうで
いつも笑顔を
絶やさない人を見て
苦や恥、悔しさを
今の自分よりも
味わったこと等ない筈だ。と
捉えてしまった時点で
人として生きるのを
自分自身が怠け挫折した
根性なしとは気付けない。
この世では
何かしらを
怠けている
根性なしだけが
どっちが
根性があるかと、
他所と根性を比べをしては
根性があるとか無いとかの
背比べを好む。
何かしらから
背を背け、
目を反らして
他所と根比べを試みて
何を以て
勝ち負けとするのかと
思えば
度胸試し。
何を度胸と思うのか
何を根性と思うのか
他所と
今の自分を比べようと
してしまう者は
臆病者の根性なし。
臆病者の根性なしだから
ありのままの現実を
直視することも出来ず
この現実世界に
今の自分よりも
楽をしている者が居ると
夢を見る。
現実は
いつでも
今の自分よりも
苦痛を抱え
恥を忍び
悔しさ堪える人が居る。
他所に見向きする
余裕も隙もない程
懸命に自分自身と
闘い生きている人が居る。
見失い
見損なえば
愚痴や怨みをボヤき
愚痴や怨みやボヤきを
ぶつけた相手や
第三者に縋り乞い
救いを求めては
今の自分自身を
より悲劇的な
目もあてられぬモノへと
変えてゆく。
何が違うかも
自分本位に
自意識過剰に
自己中心的に
自己主体に現実を捻じ曲げて
自分自身を美化するあまりに
気付けない。
他と自分が
違うことを
自覚出来なければ
誰かや何かに
延々と縋り乞い続けて
しまうだろうに
違うことを
許容出来ずに
誰かや何かに
縋り、乞うて
救われることはない。
差し出されたモノは
具わっているモノに
気付かせる
助けにしかならない。
貪るように
求め続けて
他所を引き合いに
情けを乞うても
小さな子供であろうとも
真っ直ぐ、
育つことを
願われていれば
誰彼皆が
手を差し出すばかりではない。
いろんな形
いろんな在り方が
許容されているこの世の中
どのように
今を生きるかは
どのような家庭で
生まれ育とうとも
一人一人が其々に
自ら選んでゆく。
自己責任を
背負って生きている者を
見損なわう生き方を
している人もいれば
自己責任を
背負って生きている者が
見えなくなってしまう者も居る。
其の違いは
なんなのか。
自分の人生で
背負っているモノを
何かしら、下ろしたいと
願う者。
願いそうに成って
他所を羨み始めた者。
今、この世の何かに
挫かれそうな者。
今、そのような有り様の
自分自身に同情
し始めた者。
ありのままの現実を
自分本位
自己中心的
自意識過剰
自己主体に歪めては
他に救いを求めて
縋り乞う
愚痴、怨みを募りながら
愚痴、怨みをぶつける相手に
救いを求めて縋り乞う。
自身か背負う何かに
押し潰されそうで
自身が背負う何かを
下ろしたくて
それが出来ると
夢を見て
それが出来ると
どうなるか
一時の目先の楽を求めて
気付こうとしない。
其の分、倍以上のモノを
背負ってゆくことに成るのが
人間だとは
人を人として
見れなくなった者は
気付けない。
平気と強がって見せるは
未だ臆病な根性なし
自身が背負うモノを
下ろすことなく
平気を通して見せて
やっと人並み。
誰もが、やってて
当たり前。
背負って生きて
当たり前。
甘え、己を挫く
根性なしには
理解出来ず
見ることも
適わない
現実がある。
今、自身の目に映る全て
其の捉え方まで全て
今の自分自身の有り様に
自分自身が気付く鍵。
自分自身に
気付く為の鍵を
掌に乗せれる迄は
自らが、背負うモノが
自分を苦しめることも
あるだろう。
何故に、苦しいか
自分本位に現実を捻じ曲げ
自意識過剰に
自己中心的に
自己主体に
自分を美化してしまえば
いつまでも
背負いきれずに
自らが背負うモノが
自分を苦しめ続けるだろう。
恥を知るとは
深く深く
沁みる言葉だね。
決して上辺の
表面上のことではない。
様々な事が
深く深く
都度、より深く
深いモノであるように
感じれる幸せ。
一人一人が
其々に感じてゆく。
段階があるように
感じるソレ等に
触れたことがあるならば
ソレすらも
今の自分自身の有り様を
赤裸々に物語るモノと
気付き知って
気付き知る度に
自己責任をもって
自分自身の
この世での有り様を
調え生きてゆくことが
出来るようになるのだろう