人の考え方を変えるのは相当難しいですよ。他人の考えを自分が変える事など100%無理です。人は自分自身の考えだけを変える事が唯一可能であるが、それすら難題かの様に感じるものだ。


 しかし、人の心はコロコロと変わるものでその時の自分の感情に左右され衝動的に行動するのも人という生き物です。自分の価値観、考えに忠実に自分自身の全ての行動を律している人はほとんど居ないのです。それなのに一度他人と議論になろうものなら、必死で自分の考えの正しさ、自分の主張の正当性を突っ張ろうとします。


 人は何かを信じて安心していないと何か居心地の悪さを感じ、必死になって自分の人生、生き方に安定を求めています。しかし、その行為は本質的に間違っているものでしょう。この世の不思議と人という存在をありのまま受け入れたのなら、そんな事をするのは自殺行為と同じ愚業です。しかし、人は「こうだ。」として自分の中で確かものを作り、その事で安心して生きようとします。これはやり方を間違えているだけで、精神を安らかにして安心して生きていたいというのは人間の持つ本来的な欲求でしょうから、食欲・睡眠欲・性欲などと同様に人がこの世に生き存える為の本能と言っても良いでしょうね。


 人はパンのみの為に生きるものではないと言った人が居ますが、物質的欲求だけでは人は生きて行けないのです。それは今の社会を見てもこれまでの人類史を見ても明らかです。それを「精神論」という3文字だけで切り捨てる唯物的思考は間違っています。科学というものを本質的に理解していない愚か者の主張であり、こんな思想が蔓延る背景には物質的なものを科学とし、精神的な事を宗教として来た人の間違った捉え方から来ています。精神的な事も科学できるのです。私は最近人の考えや感情も物質的なものではないかと考え始めました。物は見えて心は見えないから今の様な価値観で分けて考えただけでしょう。見えない物でも空気は有るし、それは物質です。目に見えない物も現実に有るのですから。人の感覚器で感じられる物が物質だと言う事も出来ます。空気は肌(触覚)でその存在を確認できますから。


 人の心や考え、感情などは感覚器で捉える事は出来ません。しかし、人にはそれらが有るという事が分かっています。それは実際に自分の頭の中で考えている事が意識できているからですし、心の動きや感情を内面でしっかりと感じ取っているからに他なりません。こんな事を考えているという意識があって、自分の内面で感情を感じ取る事はどうやって可能になっているのでしょう。毎日自然に意識する事すら無く人がやっている事です。人は物を食べ、服を着て、家屋に住むという物質的な行動は分かりやすく必須だと思っています。しかし、物を考え、心とは何かと探求し、感情は何故湧いて来るのか、そんな事を人生に必死だと考えている人は稀でしょう。


 人は毎日お金の為に仕事をして、食べて、着て、暮らすだけじゃないでしょう。趣味を楽しみ、友達と交流して精神的な行動も必要なものです。人の毎日の営みからも物と心の両方は必須であり、両立すべき事です。ここまではいいとして、今の社会でそれを充分満たせている人はどれだけ居るでしょうか? お金は有り余っていても心が悲鳴を上げている人も居るでしょうし、毎日物質的にギリギリの生活をしていても心豊かに生きている人も居ます。私はどちらが良いとか悪いとか言いたい訳でなく、全ての人が物心両面で豊かに暮らせる社会は実現可能なのではないかと思っています。


 物を全ての人に滞りなく行き渡らせる事は可能でしょうし、心も科学的に思考する事で迷い無く安心して生きる事が可能だと思います。今の価値観だと到底無理と思える事もその価値観を捨て、ありのままを見るという視点でこの世界と人間が作っている社会を見てみると分かる事が有ります。人の本来性や人の習性を知る事で本来あるべき人間社会の在り方も見えて来る筈です。資本主義社会、自由経済社会、社会主義、共産主義、全体主義、新自由主義といった今までの価値観では成し得なかった理想的な社会が作れるのではないでしょうか? ちょっと聞いただけでは「危険な思想ではないか?」と思う人もいるでしょう。しかし、人類はその歴史で幾度となくそんな事に挑戦して来た存在であり、これからもそれは変わる事は無いでしょう。


 全ての人の幸福を願って、それが実現する社会を人類は模索して来ました。ただそのやり方が間違っていただけです。根本の考えが間違っている事に気付いていないだけでしょう。しかし、今は一部の欲深い人たちの偏った価値観で世界が統一されようとしています。それに反対する人たちも多数ですが、今の価値観のままで戦っても被害者を増大させるだけでしょう。だから、人の内面に焦点を当ててここから改善して行く以外に方法は無いのです。誰かにやれと言って出来るものではなく、先ずは今の自分に何が出来るのかと考える事から始めなければならないでしょう。