私の過去世が明智玉(細川ガラシャ)であるとすれば、彼女の人生を振り返る上で避けては通れない出来事の一つ、本能寺の変によって起きた出来事について知る限りの事を書きたいと思います。





本能寺の変の起きる一月ほど前に、父光秀が宮津の玉の元を訪れた時の様子は以前書いた通りです。



それ以外は何もかも幸せ過ぎる程に順調だった為、突然藤孝(細川幽斎)様に呼び出された時は何が起きているのか頭も心もついていかず混乱の極みでした。


正装で行ってみると、6畳あるか無いかの部屋の奥には藤孝様より少し若そうな髭を生やした男性が、早馬を飛ばして来たのか髪も服もボサボサで鞘から抜いた刀を片手に立っていました。

着ている服の生地は質の良い物で、顔も忠興殿によく似ていたので細川本家の方だったのでは、と思っています。


その男性の手前には正装をした藤孝様が静かに、いつも通り落ち着いた様子で座っており、その隣には忠興殿の弟君、興元公らしき人物が水色の直垂姿で座っていました。


私は敷居を隔てて手前の部屋で両手を付いてひれ伏して、その男性が鬼のような形相で


「玉を殺せ!」


と、頭の上で叫ぶのをただ泣きながら聞くしか出来ませんでした。


その後どのくらい時間が経ったのか、いつもの落ち着いた穏やかな顔で藤孝様が


「どのように思うか」


と、問われるのに対して泣きながら


「細川の者として、主君信長様の仇を取っていただきたく存じます。」


と答えました。


「細川の者として其方を守る。案ずるな。」


と、藤孝様は優しくおっしゃってくださいました。



ところがその後、真逆とも思われる出来事が玉と子供達の身に起こりました。

細川の家臣に生後2〜3ヶ月の子供を腕から引き剥がされ、


「子供が殺されてしまう!」


と必死に取り返そうとしたところを更に足蹴にされ、肌襦袢一枚にされました。


子供を腕の中から無理矢理奪い取られ、それまで自分に頭を下げていた家臣に蹴り飛ばされるというのは、父の起こした事件がどれほどのものだったか痛切に思い知らされる出来事でした。


その後肌襦袢一枚で侍女と共に、いつもより天井の低い別室に隔離されたのですが、


「主君殺しの血を引く者として、自分も子供達も生きてはいられまい」


と、引き離された子供達の事を思い、絶望の中でただただ座っていました。

生きる希望も恨みも辛さも悲しみも、泣く気力すら無い深い絶望でした。


そしてその夜、玉のいる別室へ3人の刺客が放たれました。

気付くと私と侍女は壁際に座り、2人の家臣を伴った忠興殿が刃を交えて必死で玉を守ろうとしていらっしゃいました。

敵方のうちの一人は槍を持って、二人は刀で。

忠興殿と二人の家臣は刀で。

6畳2間で天井が低かったので三人全員が刀で実力も勝る忠興殿の方がやや優勢はずでしたが、玉を守りながら戦わなければならないというのは非常に不利な条件だったようです。


二人の家臣は慣れた様子で敵の相手をしていましたが、忠興殿は刃を交えたままこちらを振り返りながら必死に

「玉ー!

玉を守れ!

玉ー!」

とずっと叫んでいらっしゃいました。


十代前半で玉と同じ明るい髪色の侍女はやはり怖かったらしく、玉の右腕にしがみついて泣き叫んでいました。


「私を守れって言われてるけど…

やはり死ぬのは怖いんだろうな。」


と、もう殺されたも同然で玉は生きるのを諦めていたので、夫が家臣と共にこちらを振り返り叫びながら必死になって戦い、侍女が泣き叫ぶのを茫然と眺めていました。





以上が私の見た、本能寺の変直後に玉に起きた出来事です。


その後は細川家に興味を持つ方々にもよく知られている通り、藤孝様は家督を忠興殿に譲って出家なさり、玉は2年ほど子供達や細川家と離れて暮らす事になりました。


暗殺未遂の時は忠興殿の助けで玉の命は助かったものの、この事が尾を引いて忠興殿は玉を生涯外に出す事を嫌がったのかもしれません。


味戸野での出来事は改めて記したいと思います。




今でも藤孝様の

「案ずるな。細川の者として其方を守る。」

というのは本心で、玉殺害未遂は藤孝様の命令ではなかったと信じています。


藤孝様の出家は、対外的には中立の立場として明智光秀の側には付かない事を表明し細川家を守りました。


家の中にあっては家督を長男忠興に譲る事で、家督継承者の嫁とその子供として誰も手出し出来ぬよう、玉と子供達を守ってくださいました。

ある程度距離の離れた味戸野に玉を隠したのも、家の中で玉が暗殺されるのを避ける為では無かったかと思います。

家老松井が本能寺の変以前から豊臣秀吉と通じており、明智の動きを事前に知らせていたという記事を読むと、

「藤孝様は最初から秀吉について父光秀を倒すつもりだったのか?」

と不安になる事もありました。

「幽斎(藤孝様)は格下の光秀に与力として付けられたので、光秀を憎んでいた」

という推測に至っては吐き気すら感じます。



幼い頃の玉の視点では、藤孝様は自分とは異なるやり方、異なる兵法を芯に据えている光秀に敬意を持って接してくださっていたように思います。

二人の兵法がどう違うのか、どの書物を中心としていたのかまでは現世の私では分からないのですが…


少なくとも藤孝様は

「家柄で格下の光秀に与力として付けられた」

などという事を不満に思うような、プライドで生きるような方ではなかったはずです。