先日NHKで放送された『歴史探偵 細川ガラシャとキリシタン』、やっと見ました。
教えてくださった方々、ありがとうございました。
今晩4/20(月)の23:50から再放送するそうですね。
味戸野の登山途中で見えた山々の稜線、隠棲の地という碑のある場所から見える景色。
今生行った事が無いにも関わらず、不思議と「見覚えがある」と感じて強い懐かしさを感じました。
後半はキリシタンが主でしたが、前半では想像以上に「細川ガラシャ」の内面に焦点を当てた内容でその正確さに驚きました。
いつもは「明智玉として生きた私自身の過去世」という意味で、ガラシャと並列して当時の呼び名の「明智玉」を記載するのですが、今回は番組に合わせてガラシャのみ記載します。
先に2点ほど少し補足させていただくと、キリスト教入信の最初のきっかけは確かに夫忠興であり、高山右近から聞いた教えを主人が話してくれたのは事実です。
ただ、キリシタンの教義については主に侍女らから学びました。
仏教的な発想で
「信長様の信仰なさった神のみもとにおいて信長様の御供養を」
と思い立ったのがきっかけです。
番組で説明していたように鬱々とした生活をしていた時のことです。
高山右近から聞いたキリスト教の教えを忠興に話してもらったのは、少しでも多くの情報を得たいという私からの要求であり、夫はキリシタンにどのような印象を持っているのか、夫にキリシタン信仰の許しを得る事は出来るか探るためでもありました。
次に補足させていただきたいのは、『太閤記』において夫忠興が
「(ガラシャの)父光秀は我があるじ信長様のかたき。
一緒に住む事は出来ない。」
と話したという記述についてです。
これは実際には
「主君忠興に宮津を賜り、取り上げてくださった信長様を殺害した男の娘を許す事は出来ない」
という家臣らの言動によるものでした。
本能寺の変直後、家臣に無理矢理抱いていた子供を奪われ、その後私を殺しに来た者達がいました。
ガラシャを守りに来た忠興にさえ刃を向けていたので、忠興の存在を疎ましく思っていた一派の仕業だったのだろうと思います。
忠興自身が3歳から6歳まで両親と生き別れて名を変えて生きており、その間に生まれた弟君に藤孝様の跡を継がせたいと思っていた者達の犯行だったのかもしれません。
玉が殺されかけた当時の出来事を詳しく書いた過去のブログのリンクがこちらになります。
佐藤二郎所長の、
「(味戸野幽閉は)妻を守るためと考えられるかもしれないけどね。」
「外に出たら下手したら殺されちゃうんじゃないかという」
というお言葉。
正しく仰る通りです。
夫忠興の気持ちを代弁していただいてありがとうございます。
唯一忠興の視点から語ってくださり、本当に嬉しかったです。
京都橘大学名誉教授、田端泰子氏
「ガラシャも夫婦一緒にいてのうのうと秀吉時代を過ごすわけにはいけないと思ったと思いますね。」
「自らを罰するという気持ちもあったのでは、と考えています。」
青山学院大学教授、安廷苑氏
「謀反人明智光秀の娘として生きていかなければいけないという彼女の過酷な運命が彼女自身にとっての十字架である。
本当は逃れたいけれどそこから逃れず、運命をありのまま受け入れてそこで生きる、生き抜くということ。
そしてその先に救いがあるという希望を持てたからこそ、彼女は十字架を背負うことを決断し、教えの通りに生きることにした、ということだと思います。」
「十字架を背負い続けて、細川忠興の妻として明智光秀の娘として絶対に逃げることなく、運命をそのまま受け入れて生き抜くということが彼女が最期の死を選ぶという選択肢につながるという結論になります。」
このお二人の解説は本当に仰る通りで、特に安廷苑氏の
「十字架を背負い続けて、細川忠興の妻として明智光秀の娘として絶対に逃げることなく、運命をそのまま受け入れて生き抜くということ」
というのは、ガラシャの辞世の句
「散りぬべきとき知りてこそ世の中の
花も花なれ 人も人なれ」
の意味そのものでもあります。
最期まで「細川忠興の妻」であろうとしたのです。
その後関ヶ原の合戦で、細川忠興が「三成許さん!」と奮戦して功績を上げています。
玉(ガラシャ)の死後は継室も娶らず、お茶の師匠である千利休から譲り受けた灯籠の下に自分の遺歯とガラシャの髪を埋めるよう遺言を残したりと、生涯に渡って玉(ガラシャ)を愛し続けました。
出来れば今後、細川忠興が玉の改宗を受け入れて許し、守り続けようとした情が深い一面についても研究していただけたらと思います。