私も彼も大好きな高浜!


ブログの画像通り海の透明感がすごくて、堤防から底で泳いでいるお魚が見えるほどでした。


一緒に行ったのは1度だけですが、彼の方は何度も行った事があるらしく…

彼の古い過去世で福井育ちだった事があったので、その関係で今生も福井に詳しいと思っていたのですが、まさか沢村大学の生誕地だったとは。


沢村大学助吉重と細川忠興も、さらに古い過去世で関わりがあって出会うべくして出会ったのかもしれません。


次回高浜に行ったら生誕地の記念碑を探して手を合わせたいと思います。




8月15日の終戦の日は

「どうやって戦争遺跡を保存するか」

「経験者がいなくなる中、『戦争をしてはいけない』という平和教育をどのように存続するか」

というニュースを見て

「『戦争してはいけない』と教えたからって戦争をせずに済む問題じゃないし、生まれ変わっても戦争の記憶がある人も結構いるんだけどなぁ」

と少しモヤモヤしてました💦



幸いフォローさせていただいているブロガー様達が御供養の意識を持って各地の戦争遺跡など様子を教えてくださるので、日々日本と世界の平和を祈らせていただいています。

私自身、前世ではミッドウェイの戦い直後に生涯を終えた事も「終戦」に鈍感でいられる所以かもしれません。



ところが数日前、彼と行ったディズニーで思わぬところで落涙🥲



マリバンドが演奏する右奥で、踊りながら来る女の子達を見て

「なんて平和な景色なんだろう」

と思った瞬間、涙が。


案外心の底では前世で彼が戦死した事であったり、戦国時代での本能寺の変や明智玉(細川ガラシャ)を介錯した金津助次郎の号泣した様子など、戦の悲しみが残っていたのかな。



戦争の怖さを教えるのも大切かもしれないけど、平和な場所、平和で豊かな時間がどれほど大切で人を惹きつけるのか、皆で経験する事も平和教育じゃないのかな、と思った出来事でした🕊️



戦国時代、信長様が戦をしていたのも明智光秀が坂本城の城下町を商業に適した形にしたのも、皆が生きやすい世の中を作るためだったように思います。


(過去世で細川忠興だった彼によると、徳川家康が天下を取りたがったのは💰目当てだったとか🤫)



最近ようやく本能寺の変を真に引き起こした人物に目処がついたので、また改めてまとめます。


ここまでお付き合いいただきありがとうございました🙇🏻‍♂️







昨日広島原爆記念日は彼と共に静かに祈らせていただきました。


毎年の事ながら、原爆記念日は反対派の抗議行動がニュースになりますね。

亡くなられた方々を思うなら静かに祈っていただけたらと思います。


原爆が落とされた当日という大事な日に騒ぎ立てる事は亡くなられた方々の状態を掻き乱す事になりますし、それは生きている人達、特に騒ぐ方本人にとって決して良い事ではありません。


見えない世界の色々を呼び寄せてしまいます。



とにかく今は毎日世の中が、世界が良い方向に向かうよう、また、このブログを通して知り合えた方々全員の健康と幸せを祈っています🍀



昨夜は八代市の被災者が公民館のホールのような所で、わずかな荷物とダンボールにタオルケットで過ごされているのを見て涙が出ました。

熊本の被災者の方々が一日でも早く日常を取り戻せますように。




熊本では昨日も震度5弱の余震があり、熱中症による災害関連死の方も出ていて心配です。


被災者の皆様、どうぞご自愛ください。

皆様の無事と復興を祈っています。





話は変わりますが、

「輪廻転生の中にも法則があり、過去世と関係する場所に生まれ、関係した人と縁を結びやすい」

という事を以前書きました。

(これを変える方法もあるそうです。)



そして、私は昭和の前世で死に別れた彼に出会えそうな場所と名前を選んで生まれてきました。


母は私の前世と同じ名前を今生の私に付けようしたそうですが、私が生まれる直前「この字画では早死しやすい」と言われて名前を変えたそうです。



それでも変えずに残ったうちの一文字が、関ヶ原の合戦の屏風絵の細川家紋の中に、描かれているのを見た時は心底驚きました。




この旗は大将の乗馬の側に立てて、その所在の目印としていたものであり、祖先である細川頼有公のお名前に由来するものだったのだそうです。


細川ガラシャ(明智玉)は関ヶ原の合戦以前に他界しましたが、おそらく生前からこの旗の存在は知っていたはず。


過去世で夫であった細川忠興に見つけてもらいやすいよう、今の名前を選んで生まれてきた気がします。



そして場所も名前も過去世に関するならば、

「今生の誕生日も意味があるはず」

と以前から思っていたのですが、やはりこちらも意味があった事を今日初めて知りました。


細川ガラシャ(明智玉)の死後の出来事であるものの、細川忠興にとって重要な日付の一つでした。





最後になりましたが、津々堂のたわごと日録様、色々とブログで教えていただきありがとうございます。

直接メッセージやコメントをお送りするのが恥ずかしく、こちらに書かせていただきます🙇🏻‍♂️


先月の金津家の子孫に細川忠興・ガラシャ夫妻の子孫が嫁いだお話は涙が出るほど嬉しかったです。


三宅秀氏のお話にも涙が出ました。

そしてステンドグラスを見て感じられた一文

「風が立つ、生きねばならない!」

これは細川忠興、そしてミッドウェイの戦いで九七式艦上攻撃機の操縦士として散った彼の前世での生き様そのものでした。

明智光秀だけではなく、やはり細川忠興の血も引いていらっしゃるだけの事はあると驚きました。


いまだに「私の過去世に細川ガラシャがいる」と思う事には、拒絶感だけではなく「ガラシャ」を大切に思ってくださる皆様に対する申し訳なさがありますが、私の見た史実とは異なる過去世の出来事、特にガラシャの介錯人は小笠原少斎ではなく金津助次郎であった事だったり、細川忠興は妻ガラシャを束縛するものではなく純粋に命を守り通そうとした事、そして細川忠興の天才的な才能と情に厚く優しい一面などを皆様に少しでも知っていただけたら幸いです。







熊本、九州の方々は地震大丈夫だったでしょうか?

ニュースなどで見ていると今回も最大震度7、熊本県の広範囲で震度6という酷い揺れだったので、心が引き裂かれる思いです。


被害に遭われた方々の生活が一日も早く復興するよう祈ります。



一昨日の夜、彼と散歩をしていると妙な人達を見かけました。


駅の近くの歩道橋を通っていると、階段近くで腕にお絵描きした方がゆっくりと行ったり来たりしているのです。


「階段を降りるかと思ったら降りる訳でもない。

どこか目的を持って進んでいる訳でもない。

変な人だなぁ。」


と思って階段を降りると、階段近くの建物前で人が横を向いて寝ていました。

しかもお財布を背中の後ろに置いて。


時々酔った人がうずくまったり寝たりしているのは見た事があったのですが、お財布を出しっぱなしというのは初めて見ました。


「さっきの歩道橋の上の人と組んで人を誘き寄せてる?」

と思って、しばらく歩いた後で彼に話すと同じ見解でした。


「酔って寝てると思わせて、財布に手をかけたら上の男と組んで脅すつもりだったんだろう。」

との事。


助けるつもりで声をかけても難癖つけられそう。


皆様もご注意を。








インスタで流れてきた中に

『一生覚えておきたい【日本人女性の名言】』

というものがありました。


見ていると最後の方に細川ガラシャが登場


その言葉とは

「人は覚悟が定まった時にこそ

      恐れを失うものです」

でした。



まず考えたのは

「私そんな事言ったかな?

 そんな当たり前の事言うかな。」


当時の武家に生まれた者であれば、常に死は身近なものであり、「怖い」などと言ってられないのは皆同じ。

何らかの覚悟を、常に芯に持って生きていました。



「そんな当たり前の事言う?」


「当たり前…    当たり前…    当たり前…


 当たり前…?

 当たり前だからこそ侍女に言ったかも…」



よくよく考えてみれば、過去世で西暦1600年の自害直前、泣きながら別れを惜しむ侍女らに伝えたような気がします。


キリシタン改宗の時ではなく。


「私は死を恐れてはいないから、泣かなくて良い」

というような言葉とともに、その後の事を頼み伝える際に言ったような気がします。


だけども、あくまでも名言と扱っていただくようなものではなく、当時は皆そのような気持ちを根底に持って覚悟を持って生きていました。



それを「ガラシャの名言」としていただけるのはありがたい事です。



ちなみにこのInstagramで一番嬉しかったのは

「細川忠興の正妻」

照れラブラブ








2ヶ月ほど前、涙がこぼれ落ちるほど金津助次郎に似ている画像を目にしました。


それがこちらの右端の水色の衣装を着た男性、熊本城おもてなし武将隊の沢村大学殿。


このように頭を下げた角度の沢村大学殿を正面から写した画像に思わず過去世での、明智玉(細川ガラシャ)の自害幇助を号泣しながら断り続ける金津を思い出して泣いてしまったのですが、その画像は今や武将隊様のブログに見つからず、上記画像の元記事も見つからず。


あまりに見つからないという事は、「もう悲しい記憶は捨てなさい」という事だと解釈する事にしました。



沢村大学殿の様々な角度の画像を確認しましたが、横顔がやや異なるし沢村殿の方が背が高くイケメンなので、魂としては別人物なのでしょう。

せめて武将隊の沢村殿の魂は、金津のような悲しい過去世の持ち主であって欲しくないという、私の願望も多分に含まれてはいるのですが。


一般に明智玉(細川ガラシャ)の介錯人は細川家家老であった小笠原少斎だと言われますが、私の過去世の記憶では常に玉の警護を担当していた金津助次郎でした。


「首を落としてくれ」

と頼む私に、金津は

「手元が逸れれば無用な苦しみを与えてしまいます。ご容赦ください!」

と号泣しながら断り続けました。


「信用しているから」と何度頼み込んでも断るので、

「それならば横になるから、心臓に刃を突き立ててくれ。

体重をかければ手元が逸れる事もなかろう」

と、無理矢理に金津に自害を手伝わせました。

その後金津は屋敷に残っていた家臣ら全員の介錯をした後、一人切腹をしたのだそうです。


沢村大学殿の沈痛な面持ちで頭を下げた顔が、その時の金津そっくりで…



幸い最近ブログに上がる沢村殿の画像は笑顔ばかり。

皆様の笑顔が、過去世で戦乱の世にあった私達の供養になります。

細川忠興殿、沢村大学殿はじめ武将隊の皆様、本当にありがとうございます。

これからも末長く健やかに活躍される事を祈ります。



また、来たる6月24日は旧暦で熊本城を築城した加藤清正公の誕生日なのだそうです。


清正公のお御魂が安らかであり続けるよう、御供養させていただきたいと思います。




私が過去世で知っていた細川忠興は、武将隊の細川忠興殿と同じく、こんなひょうきんな所もありました😊


先月過去世で茶々様だったお方とメールでやり取りをして、ある事を教えていただきました。


それは世間で言われているのと大きく異なる内容であったものの、不思議なくらい自分の中ではしっくりくるお話でした。


それで私の中で確信に変わったのですが、やはり大阪の陣で東軍についた細川忠興は、跡を次男で豊臣方に付いた興秋に任せて死ぬ気だったように思います。



今生茶々様に私達の滞在するホテルの一室まで来ていただいた際には、過去世で細川忠興だった彼は本当に嬉しそうでした。

ベッドスローやフットスローと呼ばれるそうなのですが、ベッドに横たわった時にちょうど足がくる付近に引かれた細長い布を、彼がハッと気付いてめくって茶々様のバッグが汚れないようにしたり、今まで見た事が無いくらいの丁重さで接していました。

(私もそんな事された事が無いくらい🤣)


また、今生での彼の発言の数々

「三成が錦の御旗を掲げていれば家康に勝てたのに!」

「淀君はあほじゃ。真田幸村の言う事を聞いておけば。」

「家康と秀吉は狸と猿の化かし合いだった」


と、どう考えても家康派ではなく…


ストレートに

「貴方の過去世だった細川忠興は徳川派?豊臣派?」

と質問すると即答で

「豊臣派」

と答えるほど。


過去に茶々様に対して失礼な言い方をしていた事をお詫び申し上げます🙇🏻‍♂️

茶々様にお会いする前の発言ですが、今生まで引きずるくらい茶々様と秀頼様が敗けた事が悔しかったようです。


彼の、細川忠興の魂がここまでの悔しがり方をしていたのも全て茶々様のメールで理由が分かりました。

細川忠興は本当に茶々様と秀頼様をお守りしたかったのだと思います。


鹿児島県南九州市に真田幸村の墓と言い伝えられている場所があります。



大阪の陣で敗戦した秀頼様と息子の国松様は、真田幸村の護衛によって秀吉の甥で細川忠興の義理の弟である木下延俊が治める大分県日出町を経由して鹿児島に逃れられたとの言い伝えがあります。

おそらく細川忠興が次男興秋を豊臣方に就かせたのは茶々様と秀頼様のお役に立てさせる為であって、忠興自身が東軍についたのは万が一の時には秀頼様を逃す為だったのかもしれません。



今生、真田幸村に関しても「真田幸村終焉の地」という石碑を見れば

「見て!『真田幸村終焉の地』って書いてある!

真田幸村は凄かったんだ。本当に強かった。」

と興奮気味に話し、鹿児島の地図を見ていて「伝・真田幸村の墓」という文字を見ればやはり

「見て!こんな所に真田幸村の墓がある!」

とじっと見つめたり、特別な思いがあるようです。



下に添付する文章にも、忠興が秀頼様が鹿児島にいらっしゃる事を知っていたという内容が含まれていました。

細川三斎先見〔大坂陣起こらんとする前〕

軍講者宗耕の話である。

 大坂陣起ころうとする前、細川三斎は領国にいた。
宇土から熊本に行く途中、何者かが馬上で深網笠をかぶって行く者に会った。
三斎はその者と間近くで行き過ぎざまに振り返った。

三斎は左右に問うた。
「今の馬上の士、お前たちは何者かを知っているか。」

「知りません。」

「あれは塙団右衛門だ。どうしてこの地に来たのか。
我はあやうく打ち捨てようと思ったが、そのままにしておいた。
もしかすると、遠からず変事が起こるだろう」

 果たして、その後間もなく大坂の乱が起こったという。
後に思うと、塙は薩摩へ行く途中であろう。そうならば大坂の戦の最後で秀頼も薩摩へ落ちて行ったが、なにか薩州と由縁があるのだろうか。
神君にも御弁えられていることなので、捨て置かれしとのことなのだろうかと。

 またこのことをある席上で細川の留守居へ問うと
「この話にでてくるのは、まさしく三斎である。」
と言ったそうだ。
薩摩の留守居も居たが、
「これはどうしたことであろうか、よく知りません。」
と答えたそうだ。
思うに、薩摩の留守居は憚ったのだろうか、そもそも知らなかったのだろうか。
(甲子夜話三篇)



細川忠興の戦に関する分析力は並外れたものがあります。

一方で玉(細川ガラシャ)の死亡直後は複数の親族と喧嘩別れをするくらい心が荒れていました。


細川忠興は優秀だった興秋を豊臣派に送り、自らの命は捨てる覚悟で徳川家康軍に付いたのかもしれません。