一昨日の夜、彼と散歩をしていると妙な人達を見かけました。


駅の近くの歩道橋を通っていると、階段近くで腕にお絵描きした方がゆっくりと行ったり来たりしているのです。


「階段を降りるかと思ったら降りる訳でもない。

どこか目的を持って進んでいる訳でもない。

変な人だなぁ。」


と思って階段を降りると、階段近くの建物前で人が横を向いて寝ていました。

しかもお財布を背中の後ろに置いて。


時々酔った人がうずくまったり寝たりしているのは見た事があったのですが、お財布を出しっぱなしというのは初めて見ました。


「さっきの歩道橋の上の人と組んで人を誘き寄せてる?」

と思って、しばらく歩いた後で彼に話すと同じ見解でした。


「酔って寝てると思わせて、財布に手をかけたら上の男と組んで脅すつもりだったんだろう。」

との事。


助けるつもりで声をかけても難癖つけられそう。


皆様もご注意を。








インスタで流れてきた中に

『一生覚えておきたい【日本人女性の名言】』

というものがありました。


見ていると最後の方に細川ガラシャが登場


その言葉とは

「人は覚悟が定まった時にこそ

      恐れを失うものです」

でした。



まず考えたのは

「私そんな事言ったかな?

 そんな当たり前の事言うかな。」


当時の武家に生まれた者であれば、常に死は身近なものであり、「怖い」などと言ってられないのは皆同じ。

何らかの覚悟を、常に芯に持って生きていました。



「そんな当たり前の事言う?」


「当たり前…    当たり前…    当たり前…


 当たり前…?

 当たり前だからこそ侍女に言ったかも…」



よくよく考えてみれば、過去世で西暦1600年の自害直前、泣きながら別れを惜しむ侍女らに伝えたような気がします。


キリシタン改宗の時ではなく。


「私は死を恐れてはいないから、泣かなくて良い」

というような言葉とともに、その後の事を頼み伝える際に言ったような気がします。


だけども、あくまでも名言と扱っていただくようなものではなく、当時は皆そのような気持ちを根底に持って覚悟を持って生きていました。



それを「ガラシャの名言」としていただけるのはありがたい事です。



ちなみにこのInstagramで一番嬉しかったのは

「細川忠興の正妻」

照れラブラブ








2ヶ月ほど前、涙がこぼれ落ちるほど金津助次郎に似ている画像を目にしました。


それがこちらの右端の水色の衣装を着た男性、熊本城おもてなし武将隊の沢村大学殿。


このように頭を下げた角度の沢村大学殿を正面から写した画像に思わず過去世での、明智玉(細川ガラシャ)の自害幇助を号泣しながら断り続ける金津を思い出して泣いてしまったのですが、その画像は今や武将隊様のブログに見つからず、上記画像の元記事も見つからず。


あまりに見つからないという事は、「もう悲しい記憶は捨てなさい」という事だと解釈する事にしました。



沢村大学殿の様々な角度の画像を確認しましたが、横顔がやや異なるし沢村殿の方が背が高くイケメンなので、魂としては別人物なのでしょう。

せめて武将隊の沢村殿の魂は、金津のような悲しい過去世の持ち主であって欲しくないという、私の願望も多分に含まれてはいるのですが。


一般に明智玉(細川ガラシャ)の介錯人は細川家家老であった小笠原少斎だと言われますが、私の過去世の記憶では常に玉の警護を担当していた金津助次郎でした。


「首を落としてくれ」

と頼む私に、金津は

「手元が逸れれば無用な苦しみを与えてしまいます。ご容赦ください!」

と号泣しながら断り続けました。


「信用しているから」と何度頼み込んでも断るので、

「それならば横になるから、心臓に刃を突き立ててくれ。

体重をかければ手元が逸れる事もなかろう」

と、無理矢理に金津に自害を手伝わせました。

その後金津は屋敷に残っていた家臣ら全員の介錯をした後、一人切腹をしたのだそうです。


沢村大学殿の沈痛な面持ちで頭を下げた顔が、その時の金津そっくりで…



幸い最近ブログに上がる沢村殿の画像は笑顔ばかり。

皆様の笑顔が、過去世で戦乱の世にあった私達の供養になります。

細川忠興殿、沢村大学殿はじめ武将隊の皆様、本当にありがとうございます。

これからも末長く健やかに活躍される事を祈ります。



また、来たる6月24日は旧暦で熊本城を築城した加藤清正公の誕生日なのだそうです。


清正公のお御魂が安らかであり続けるよう、御供養させていただきたいと思います。




私が過去世で知っていた細川忠興は、武将隊の細川忠興殿と同じく、こんなひょうきんな所もありました😊


先月過去世で茶々様だったお方とメールでやり取りをして、ある事を教えていただきました。


それは世間で言われているのと大きく異なる内容であったものの、不思議なくらい自分の中ではしっくりくるお話でした。


それで私の中で確信に変わったのですが、やはり大阪の陣で東軍についた細川忠興は、跡を次男で豊臣方に付いた興秋に任せて死ぬ気だったように思います。



今生茶々様に私達の滞在するホテルの一室まで来ていただいた際には、過去世で細川忠興だった彼は本当に嬉しそうでした。

ベッドスローやフットスローと呼ばれるそうなのですが、ベッドに横たわった時にちょうど足がくる付近に引かれた細長い布を、彼がハッと気付いてめくって茶々様のバッグが汚れないようにしたり、今まで見た事が無いくらいの丁重さで接していました。

(私もそんな事された事が無いくらい🤣)


また、今生での彼の発言の数々

「三成が錦の御旗を掲げていれば家康に勝てたのに!」

「淀君はあほじゃ。真田幸村の言う事を聞いておけば。」

「家康と秀吉は狸と猿の化かし合いだった」


と、どう考えても家康派ではなく…


ストレートに

「貴方の過去世だった細川忠興は徳川派?豊臣派?」

と質問すると即答で

「豊臣派」

と答えるほど。


過去に茶々様に対して失礼な言い方をしていた事をお詫び申し上げます🙇🏻‍♂️

茶々様にお会いする前の発言ですが、今生まで引きずるくらい茶々様と秀頼様が敗けた事が悔しかったようです。


彼の、細川忠興の魂がここまでの悔しがり方をしていたのも全て茶々様のメールで理由が分かりました。

細川忠興は本当に茶々様と秀頼様をお守りしたかったのだと思います。


鹿児島県南九州市に真田幸村の墓と言い伝えられている場所があります。



大阪の陣で敗戦した秀頼様と息子の国松様は、真田幸村の護衛によって秀吉の甥で細川忠興の義理の弟である木下延俊が治める大分県日出町を経由して鹿児島に逃れられたとの言い伝えがあります。

おそらく細川忠興が次男興秋を豊臣方に就かせたのは茶々様と秀頼様のお役に立てさせる為であって、忠興自身が東軍についたのは万が一の時には秀頼様を逃す為だったのかもしれません。



今生、真田幸村に関しても「真田幸村終焉の地」という石碑を見れば

「見て!『真田幸村終焉の地』って書いてある!

真田幸村は凄かったんだ。本当に強かった。」

と興奮気味に話し、鹿児島の地図を見ていて「伝・真田幸村の墓」という文字を見ればやはり

「見て!こんな所に真田幸村の墓がある!」

とじっと見つめたり、特別な思いがあるようです。



下に添付する文章にも、忠興が秀頼様が鹿児島にいらっしゃる事を知っていたという内容が含まれていました。

細川三斎先見〔大坂陣起こらんとする前〕

軍講者宗耕の話である。

 大坂陣起ころうとする前、細川三斎は領国にいた。
宇土から熊本に行く途中、何者かが馬上で深網笠をかぶって行く者に会った。
三斎はその者と間近くで行き過ぎざまに振り返った。

三斎は左右に問うた。
「今の馬上の士、お前たちは何者かを知っているか。」

「知りません。」

「あれは塙団右衛門だ。どうしてこの地に来たのか。
我はあやうく打ち捨てようと思ったが、そのままにしておいた。
もしかすると、遠からず変事が起こるだろう」

 果たして、その後間もなく大坂の乱が起こったという。
後に思うと、塙は薩摩へ行く途中であろう。そうならば大坂の戦の最後で秀頼も薩摩へ落ちて行ったが、なにか薩州と由縁があるのだろうか。
神君にも御弁えられていることなので、捨て置かれしとのことなのだろうかと。

 またこのことをある席上で細川の留守居へ問うと
「この話にでてくるのは、まさしく三斎である。」
と言ったそうだ。
薩摩の留守居も居たが、
「これはどうしたことであろうか、よく知りません。」
と答えたそうだ。
思うに、薩摩の留守居は憚ったのだろうか、そもそも知らなかったのだろうか。
(甲子夜話三篇)



細川忠興の戦に関する分析力は並外れたものがあります。

一方で玉(細川ガラシャ)の死亡直後は複数の親族と喧嘩別れをするくらい心が荒れていました。


細川忠興は優秀だった興秋を豊臣派に送り、自らの命は捨てる覚悟で徳川家康軍に付いたのかもしれません。





この2ヶ月、とっても濃くて書き残したい事だらけの日々でした。


まずはdocomoの抽選でディズニーシーの『Believe!Sea of dreams 』というショーの招待席に当選!


ワンデイパス付き😍


「夢を諦めないで!」というテーマで、家でYoutubeを流しっぱなしにするくらい大好きなショーです。



過去世では細川忠興・ガラシャ (明智玉)の時代に限らず、古い中国の時代でも兵士らの一糸乱れぬ行動を見てきました。

そのような完璧に揃った行動をするという特性が平和な時代にはこのように美しい物になるのか、と涙が出ます。



ところが当日、そのショーがシステムトラブルで一時停止😂



停止している時に

「私の不徳?霊障?何か罰が当たったのかな?」

と彼に話しました。


「違うよ。本当に悪かったらそもそもチケット当たらないよ。

ショーが一時停止とは言え、僕達はお金を出さずにディズニーで遊んで色々見る事も出来た。

何も損害は無いだろ?

むしろ貴重な体験じゃないか。」

との言葉で一安心。



「皆様、お待たせしました!

ショーを再開します。」

とのアナウンスで歓声があがり、中断したアラジンの部分から再開。


花火が一部上がらなかったくらいで済んで最後まで鑑賞する事が出来ました🥰



さらにその2日後、沖縄に向かう飛行機までもが羽田空港管制塔のシステムトラブルで運行不明に

アプリではシステム再開となっていたのに、空港で聞いてみると欠航との事で翌日の便に振り替え。

まさかのわずか2日間で2回のシステムトラブル遭遇🥲


急遽羽田空港から車で20分ほどの距離にある品川プリンスホテルに宿泊しました。


目の前にある品川駅を見下ろすと大規模な再開発工事中。






東京タワーも意外に近い🗼✨


直接視界には入りませんでしたが、品川駅の少し奥にある高輪ゲートウェイ駅の正面を少し登ると、赤穂浪士の墓所として有名な泉岳寺もあるそうです。



翌日は無事に飛行機も飛んで沖縄へ。

胡蝶蘭が沢山飾っていて、とても美しい空港です。







色々と日程調整の結果、何の滞りもなくスケジュールを組み直す事が出来た上に、沖縄で会う予定だった方のお家近くまで行く事が出来ました。


お互いに

「いつか会えると思っていました」

という不思議なご縁で、会えて本当に嬉しかったです🥹✨



沖縄は4月1日に米軍が本島上陸し、約3ヶ月地上戦が行われたのだそうです。

移動中も彼は停車の度に四方に向けて御供養の仕草をしていたのですが、私は何もせず…

そして言われました。


「結界張らないの?

結界なら出来るでしょ?」


「結界?

御供養のご真言じゃなくて?」


「結界も大事だよ。

向こうに行ってる人達も生きている人達も結界を張って悪い物から護らないといけないでしょ。」



結界ってそんな使い方も出来るんだ!

と、今更。


最近は勝手ながら親族や友人だけでなく、ブロ友様や「いいね」を押してくださってる方々にも悪い物が近寄って来ないよう結界を張らせていただいています🙇🏻‍♂️


皆様が幸せに、良いご縁に恵まれて健康で過ごせますように🍀







九州の記事だ、と思って開いたら最初に崇禅寺のお話が書かれていたので驚きました。


崇禅寺に細川ガラシャ(明智玉)の遺骨が納められている事は知っていたのですが、殉死した家臣らのお墓もそこにあったのですね。


金津助次郎ら殉死した家臣らのお墓に手を合わせたいとずっと気になっていたものの、それぞれの家系で墓に入って供養されていると思っていたのでお墓参りをする事は不可能だと諦めていました。


まさかそんな近くにあったとは。

嬉しくて昨夜は何度も読み返しました。

練習巡洋艦香取様、教えていただき本当にありがとうございました。



家臣らのお墓を作ったのは細川忠興しかいないと思い、過去世で細川忠興であった彼にお礼を言ったところ

「俺はえらいじゃろう!」

と忠興っぽい言い方で胸を張っていました。



ちなみに細川家のお墓のある大徳寺高桐院は

「細川忠興が父の菩提寺として1601年建立」

とされていますが、信長様のお墓もある大徳寺で、キリシタンだった妻のためというのが憚られて「父の菩提寺」としたのだと思います。

1600年に明智玉が自害した直後の動きで、忠興死後は大切にしていた千利休の灯籠を共同墓碑として供えるなど、どう考えても自分と妻の菩提寺というのが、忠興の本心かと。

(京都フリー写真素材集より大徳寺高桐院)


また、高桐院には歌舞伎の創設者である出雲阿国のお墓もあります。

彼に話を聞くとはっきりした記憶は無いものの、やはり出雲阿国は忠興の間者、スパイの役割も果たしていたようです。



皆の御供養をさせていただきたいと思います。

練習巡洋艦香取様、本当にありがとうございました。






羽田空港管制塔システム障害の影響を受けて、一日遅れで那覇空港到着!


大好きな胡蝶蘭とシーサーがお出迎え💕







先日NHKで放送された『歴史探偵 細川ガラシャとキリシタン』、やっと見ました。

教えてくださった方々、ありがとうございました。

今晩4/20(月)の23:50から再放送するそうですね。


味戸野の登山途中で見えた山々の稜線、隠棲の地という碑のある場所から見える景色。   

今生行った事が無いにも関わらず、不思議と「見覚えがある」と感じて強い懐かしさを感じました。


後半はキリシタンが主でしたが、前半では想像以上に「細川ガラシャ」の内面に焦点を当てた内容でその正確さに驚きました。


いつもは「明智玉として生きた私自身の過去世」という意味で、ガラシャと並列して当時の呼び名の「明智玉」を記載するのですが、今回は番組に合わせてガラシャのみ記載します。


先に2点ほど少し補足させていただくと、キリスト教入信の最初のきっかけは確かに夫忠興であり、高山右近から聞いた教えを主人が話してくれたのは事実です。


ただ、キリシタンの教義については主に侍女らから学びました。


仏教的な発想で

「信長様の信仰なさった神のみもとにおいて信長様の御供養を」

と思い立ったのがきっかけです。

番組で説明していたように鬱々とした生活をしていた時のことです。


高山右近から聞いたキリスト教の教えを忠興に話してもらったのは、少しでも多くの情報を得たいという私からの要求であり、夫はキリシタンにどのような印象を持っているのか、夫にキリシタン信仰の許しを得る事は出来るか探るためでもありました。


次に補足させていただきたいのは、『太閤記』において夫忠興が

「(ガラシャの)父光秀は我があるじ信長様のかたき。

一緒に住む事は出来ない。」

と話したという記述についてです。

これは実際には

「主君忠興に宮津を賜り、取り上げてくださった信長様を殺害した男の娘を許す事は出来ない」

という家臣らの言動によるものでした。

本能寺の変直後、家臣に無理矢理抱いていた子供を奪われ、その後私を殺しに来た者達がいました。

ガラシャを守りに来た忠興にさえ刃を向けていたので、忠興の存在を疎ましく思っていた一派の仕業だったのだろうと思います。

忠興自身が3歳から6歳まで両親と生き別れて名を変えて生きており、その間に生まれた弟君に藤孝様の跡を継がせたいと思っていた者達の犯行だったのかもしれません。


玉が殺されかけた当時の出来事を詳しく書いた過去のブログのリンクがこちらになります。





佐藤二郎所長の、


「(味戸野幽閉は)妻を守るためと考えられるかもしれないけどね。」


「外に出たら下手したら殺されちゃうんじゃないかという」


というお言葉。

正しく仰る通りです。

夫忠興の気持ちを代弁していただいてありがとうございます。

唯一忠興の視点から語ってくださり、本当に嬉しかったです。



京都橘大学名誉教授、田端泰子氏

「ガラシャも夫婦一緒にいてのうのうと秀吉時代を過ごすわけにはいけないと思ったと思いますね。」


「自らを罰するという気持ちもあったのでは、と考えています。」



青山学院大学教授、安廷苑氏

「謀反人明智光秀の娘として生きていかなければいけないという彼女の過酷な運命が彼女自身にとっての十字架である。

本当は逃れたいけれどそこから逃れず、運命をありのまま受け入れてそこで生きる、生き抜くということ。

そしてその先に救いがあるという希望を持てたからこそ、彼女は十字架を背負うことを決断し、教えの通りに生きることにした、ということだと思います。」


「十字架を背負い続けて、細川忠興の妻として明智光秀の娘として絶対に逃げることなく、運命をそのまま受け入れて生き抜くということが彼女が最期の死を選ぶという選択肢につながるという結論になります。」



このお二人の解説は本当に仰る通りで、特に安廷苑氏の


「十字架を背負い続けて、細川忠興の妻として明智光秀の娘として絶対に逃げることなく、運命をそのまま受け入れて生き抜くということ」


というのは、ガラシャの辞世の句


「散りぬべきとき知りてこそ世の中の

   花も花なれ 人も人なれ」


の意味そのものでもあります。

最期まで「細川忠興の妻」であろうとしたのです。



その後関ヶ原の合戦で、細川忠興が「三成許さん!」と奮戦して功績を上げています。


玉(ガラシャ)の死後は継室も娶らず、お茶の師匠である千利休から譲り受けた灯籠の下に自分の遺歯とガラシャの髪を埋めるよう遺言を残したりと、生涯に渡って玉(ガラシャ)を愛し続けました。


出来れば今後、細川忠興が玉の改宗を受け入れて許し、守り続けようとした情が深い一面についても研究していただけたらと思います。











私ではなく、彼の方が。


ここ数日仕事が連休に入った途端、薬を飲んでも38度越えの体調不良が続きました。


その間看病で付きっきり。


やっと少しやりたい事も出来る時間が取れそうです🥹