九州の記事だ、と思って開いたら最初に崇禅寺のお話が書かれていたので驚きました。


崇禅寺に細川ガラシャ(明智玉)の遺骨が納められている事は知っていたのですが、殉死した家臣らのお墓もそこにあったのですね。


金津助次郎ら殉死した家臣らのお墓に手を合わせたいとずっと気になっていたものの、それぞれの家系で墓に入って供養されていると思っていたのでお墓参りをする事は不可能だと諦めていました。


まさかそんな近くにあったとは。

嬉しくて昨夜は何度も読み返しました。

練習巡洋艦香取様、教えていただき本当にありがとうございました。



家臣らのお墓を作ったのは細川忠興しかいないと思い、過去世で細川忠興であった彼にお礼を言ったところ

「俺はえらいじゃろう!」

と忠興っぽい言い方で胸を張っていました。



ちなみに細川家のお墓のある大徳寺高桐院は

「細川忠興が父の菩提寺として1601年建立」

とされていますが、信長様のお墓もある大徳寺で、キリシタンだった妻のためというのが憚られて「父の菩提寺」としたのだと思います。

1600年に明智玉が自害した直後の動きで、忠興死後は大切にしていた千利休の灯籠を共同墓碑として供えるなど、どう考えても自分と妻の菩提寺というのが、忠興の本心かと。

(京都フリー写真素材集より大徳寺高桐院)


また、高桐院には歌舞伎の創設者である出雲阿国のお墓もあります。

彼に話を聞くとはっきりした記憶は無いものの、やはり出雲阿国は忠興の間者、スパイの役割も果たしていたようです。



皆の御供養をさせていただきたいと思います。

練習巡洋艦香取様、本当にありがとうございました。






羽田空港管制塔システム障害の影響を受けて、一日遅れで那覇空港到着!


大好きな胡蝶蘭とシーサーがお出迎え💕







先日NHKで放送された『歴史探偵 細川ガラシャとキリシタン』、やっと見ました。

教えてくださった方々、ありがとうございました。

今晩4/20(月)の23:50から再放送するそうですね。


味戸野の登山途中で見えた山々の稜線、隠棲の地という碑のある場所から見える景色。   

今生行った事が無いにも関わらず、不思議と「見覚えがある」と感じて強い懐かしさを感じました。


後半はキリシタンが主でしたが、前半では想像以上に「細川ガラシャ」の内面に焦点を当てた内容でその正確さに驚きました。


いつもは「明智玉として生きた私自身の過去世」という意味で、ガラシャと並列して当時の呼び名の「明智玉」を記載するのですが、今回は番組に合わせてガラシャのみ記載します。


先に2点ほど少し補足させていただくと、キリスト教入信の最初のきっかけは確かに夫忠興であり、高山右近から聞いた教えを主人が話してくれたのは事実です。


ただ、キリシタンの教義については主に侍女らから学びました。


仏教的な発想で

「信長様の信仰なさった神のみもとにおいて信長様の御供養を」

と思い立ったのがきっかけです。

番組で説明していたように鬱々とした生活をしていた時のことです。


高山右近から聞いたキリスト教の教えを忠興に話してもらったのは、少しでも多くの情報を得たいという私からの要求であり、夫はキリシタンにどのような印象を持っているのか、夫にキリシタン信仰の許しを得る事は出来るか探るためでもありました。


次に補足させていただきたいのは、『太閤記』において夫忠興が

「(ガラシャの)父光秀は我があるじ信長様のかたき。

一緒に住む事は出来ない。」

と話したという記述についてです。

これは実際には

「主君忠興に宮津を賜り、取り上げてくださった信長様を殺害した男の娘を許す事は出来ない」

という家臣らの言動によるものでした。

本能寺の変直後、家臣に無理矢理抱いていた子供を奪われ、その後私を殺しに来た者達がいました。

ガラシャを守りに来た忠興にさえ刃を向けていたので、忠興の存在を疎ましく思っていた一派の仕業だったのだろうと思います。

忠興自身が3歳から6歳まで両親と生き別れて名を変えて生きており、その間に生まれた弟君に藤孝様の跡を継がせたいと思っていた者達の犯行だったのかもしれません。


玉が殺されかけた当時の出来事を詳しく書いた過去のブログのリンクがこちらになります。





佐藤二郎所長の、


「(味戸野幽閉は)妻を守るためと考えられるかもしれないけどね。」


「外に出たら下手したら殺されちゃうんじゃないかという」


というお言葉。

正しく仰る通りです。

夫忠興の気持ちを代弁していただいてありがとうございます。

唯一忠興の視点から語ってくださり、本当に嬉しかったです。



京都橘大学名誉教授、田端泰子氏

「ガラシャも夫婦一緒にいてのうのうと秀吉時代を過ごすわけにはいけないと思ったと思いますね。」


「自らを罰するという気持ちもあったのでは、と考えています。」



青山学院大学教授、安廷苑氏

「謀反人明智光秀の娘として生きていかなければいけないという彼女の過酷な運命が彼女自身にとっての十字架である。

本当は逃れたいけれどそこから逃れず、運命をありのまま受け入れてそこで生きる、生き抜くということ。

そしてその先に救いがあるという希望を持てたからこそ、彼女は十字架を背負うことを決断し、教えの通りに生きることにした、ということだと思います。」


「十字架を背負い続けて、細川忠興の妻として明智光秀の娘として絶対に逃げることなく、運命をそのまま受け入れて生き抜くということが彼女が最期の死を選ぶという選択肢につながるという結論になります。」



このお二人の解説は本当に仰る通りで、特に安廷苑氏の


「十字架を背負い続けて、細川忠興の妻として明智光秀の娘として絶対に逃げることなく、運命をそのまま受け入れて生き抜くということ」


というのは、ガラシャの辞世の句


「散りぬべきとき知りてこそ世の中の

   花も花なれ 人も人なれ」


の意味そのものでもあります。

最期まで「細川忠興の妻」であろうとしたのです。



その後関ヶ原の合戦で、細川忠興が「三成許さん!」と奮戦して功績を上げています。


玉(ガラシャ)の死後は継室も娶らず、お茶の師匠である千利休から譲り受けた灯籠の下に自分の遺歯とガラシャの髪を埋めるよう遺言を残したりと、生涯に渡って玉(ガラシャ)を愛し続けました。


出来れば今後、細川忠興が玉の改宗を受け入れて許し、守り続けようとした情が深い一面についても研究していただけたらと思います。











私ではなく、彼の方が。


ここ数日仕事が連休に入った途端、薬を飲んでも38度越えの体調不良が続きました。


その間看病で付きっきり。


やっと少しやりたい事も出来る時間が取れそうです🥹




今年の1月から、熊本城おもてなし武将隊にかつての細川忠興・忠利家臣、沢村大学吉重が加わりました。



(左:細川忠興   右:沢村大学)

昔自分の過去世が明智玉であった可能性を否定するために細川忠興・ガラシャ夫妻について調べていた時に名前を見かけた事はあったのですが、他の家臣と同じく特別な感情が呼び起こされる事もなく過ぎ去りました。

ところが今回「沢村大学」という名前を見た時に、ふと遠い記憶にも似た妙な感覚が…

「聞き覚えがある。
宮津時代、忠興の側にいたはず。」

そんな気がしました。

以前沢村大学の名前を見かけた時はそんな事思わなかったのに、今回なぜかそう感じました。

そこで自分の記憶らしきものを辿ってみると、あの時の方か?と思い当たる人物に突き当たりました。


以前下の記事で、本能寺の変直後、内部の人間によって殺されかけた事を書きました。
その際二人の忠興家臣が忠興と共に相手と刀を交えて守ってくださったのですが、その一人が沢村大学だったように思います。

調べてみると、確かに本能寺の変の起きた前年に細川家に仕官しに来たようです。


本能寺の変直後の玉暗殺未遂は内部の企だてでした。

仕官して間もない沢村大学はそれに加わっていない可能性が高いので忠興が沢村大学を玉救出に同行させたのかもしれません。


沢村は「小柄な人物」だったそうですが、部屋の天井を低めにしていたためか、その時はそれほど小柄には感じませんでした。

殺されかけた際忠興と共に玉を救ったうちの一人、沢村大学らしき男性は冷静沈着でスラッとしており、青い着物に黒か紺の袴、頭はやや丸く、小顔で整った顔の、忠興と歳の近い若い男性でした。

武将隊の沢村大学は私の記憶にある沢村大学よりも背も高く優しい顔立ち。

当時の大学の水色の着物はちょうどこの赤丸で囲っている部分くらいの色でした。

明智桔梗紋の水色よりやや濃い目。


そして沢村大学本人の肖像画を検索したところ、驚きました。



私が見た沢村大学は若い時で、細かい所までは記憶に無いものの頭の形、顔の輪郭は全くこのままでした。

上の兜に書いていて、武将隊の沢村大学の着物にも縫い付けられていた
「林月浄西居士」
というのは沢村大学の戒名でしょうか。
今生になって助けてくださった方の戒名を知る事が出来てありがたい事です。


熊本城武将隊に沢村大学を加えてくださりありがとうございます。
皆様の一層のご活躍を祈念しています。









今回は私の魂が最も避けたい話、過去世で明智玉(細川ガラシャ)であった時代に起きた『本能寺の変』について書きたいと思います。


以前玉(ガラシャ)の侍女るいさや、号泣しながらもガラシャの介錯をしてくれた家臣金津助次郎について書いて気持ちが楽になった事があったので、本能寺の変についても少し吐き出させてください。



昨年末の録画ですが、一昨年明智光秀の築いた坂本城の石垣が発見されて研究が進んでいるらしく、坂本城城下町について取り上げているテレビ番組を見ました。





何故かそれを見ながら

「このような石垣は見覚えがある。

父らしい城下町だな。

街作りは好きだったしな。」

と激しい郷愁の思いに駆られました。

いつもの如く、なぜ「父光秀は街作りが好きだった」と思ったのか自分でも分からないのですが…


私の記憶にある光秀は、戦が嫌いでした。

戦に行く前は眉間に皺を寄せて苦悩に満ちた顔をしていました。


明智玉として生きた時代、私が幼い頃はよく仲間と囲炉裏を囲んで談話する父のあぐらの上に座らされていたのですが、父としては私を可愛がっていたから側に置いたというだけではなく、幼い女の子を同席させる事で

「妻や子供のためにも生きて帰りたい」

という思いを仲間の心に呼び起こさせて、自然と皆が無謀な言動を控えるよう仕向けるためでもあったように思います。


また、この過去世での私が小さい時に遊んでくれた家臣のお兄ちゃんが父の迎えに来た際、私に手を振りながら出征して行くのを寂しく見送った記憶があります。

仲良くしてくれたお兄ちゃんに付いて行きたい、囲炉裏を囲む父や藤孝(出家後、細川幽斎)様達の話をもっと理解出来るようになりたい、という思いもあって6歳を迎える頃には玉は「戦に連れていって!」と言う面倒臭い子供に育ちました。


信長様が幼い頃の私を

「これは男であれば立派な武将になっただろう」

とお褒めくださったという逸話が残っていますが、そのお言葉そのものは私の記憶に無いものの、私が父に「一緒に戦に行く!剣を教えて!」と言っていたこの頃の出来事だと思います。



戦嫌いの父は、何故謀反を起こしたのか。

娘の立場からしてみると、父は慎重な性格だと思っていたので、本能寺の変以降の行動は後手後手で光秀らしからぬように思えて謎だらけでした。



以前アメブロをなさっていた方で、

「過去世で自分は鉄砲撃ちとして光秀本陣にいた。

天王山の戦いにも参加し、恵解山(いげのやま)の西側で死んだ。」

とおっしゃる方とやり取りをさせていただいた事がありました。

その方の今生での過去世の思い出し方、トラウマの引きずり方は本物であるように感じました。


その方は

「銃を扱えたので光秀本陣に組み込まれたが、元々は村ごと人質に取られていたので光秀に従わざるをえなかった」

のだそうです。

私がその娘であるにも関わらず、

「あの時代、それはしょうがない事だった」

と、慰めてくださった上に色々教えていただいて本当にありがたかったです。


その方は

「烏丸を目指して桂川を下って鳥羽の辺りに差し掛かった頃、行軍が伸び切った頃に後方の部隊が本能寺を襲撃したという報せが光秀のもとに届いた。

光秀は驚いていたが、その後責任者として行動せざるを得なかった。」

とおっしゃっていました。

何故烏丸を目指したのかは不明ですが、本能寺の変は光秀の本意では無かったのかもしれません。



先日録画をようやく見た『歴史探偵』という番組では

「2021年に『本能寺へは部下を差し向け、光秀は鳥羽に控えていた』という資料が発見された」

と言っていました。


光秀本陣にいたその方とのやり取りは2021年以降であったものの、その方が2021年に発見された資料の内容を知って話を作ったのであれば

「光秀は部下を差し向けて自分は鳥羽に控えていた」

とするはずで、

「予想外の本能寺襲撃に驚いていた」

とは言わないはず。

ですので、私は以前と変わらずこの方の

「本能寺の変襲撃は光秀の本意では無かった」

との言葉を信じたいと思います。



では誰かが裏で糸を引いていたのかと言えば、それもまた不明です。

出来れば誰か別の人物の指図で光秀が信長様討伐を企だてたと信じたい気持ちも拭いきれずにいます。



一方で光秀家臣の斎藤利三(春日局の父)の息子だったと思いますが、

「光秀が信頼する家臣数名を集めて信長様を倒す意向を伝えたところ、『話がどこから漏れるか分からないから、実行するならば早い方が良い』との声が上がった」

との証言をしたという記載を目にした事があります。


これが本当であれば、光秀は信長様を討つ機会を前々から伺っていたものの光秀の意を汲んだ重臣が光秀の号令無くして本能寺を襲撃したものであって、タイミングが光秀の思ったものではなくて「動揺した」という可能性も考えられます。




私の過去世の記憶にある天正10年、宮津に孫の顔を見に来た光秀が縁側で物思いに耽っていたのは、信長様への謀反の根回しをしようと藤孝様に話をしたものの、良い返事が得られなかったためかもしれません。



そうであれば本能寺の変直後、細川藤孝様が

「信長様の菩提を弔う」

と早々に出家を宣言したのも、光秀の計画に甘さであったり道理が通らない事を知っていたものの自ら光秀に刃を向けるのをためらったためであったと考えられます。



一方で先日彼と話していた時に、細川忠興の一色義定謀殺の話題になりました。

本能寺の変で藤孝様が隠居なさった後、細川忠興が妹婿である一色義定を宴席と称して呼び出し殺害したという事件です。


「俺が細川忠興だったとして、そんな事するか?」

と、それまでずっと私の中で疑問に思っていた事をストレートに言いました。


今生の彼の言動を見てもはかりごとで人を貶める事はあり得ない。

細川忠興も一色義定殺害以外で人を騙して殺害するような事はしていない。

細川忠興を取り上げたYoutubeや記事で時折目にする通り、忠興は直情的な人でした。

戦についても物資の準備、作戦、家臣らとの連携、全てにおいて完璧に整えて、その上で場に応じて臨機応変に考え行動する人でしたので、やるなら正攻法で攻めたと思います。

(私の記憶にある、若かりし日の細川忠興)


それに加えてどの過去世においても媚びへつらうという意味ではなく、規律として

「上の言う事は自分の感情を押し殺してでも絶対服従」

という人なので、彼らしくない謀殺の裏には藤孝様のお考えがあったのではないかと感じています。



確かに藤孝様はお人柄が柔らかく包容力もありましたが、非常に賢い方でしたので本心を出さないところがありました。


もしかすると、光秀敗北は幼い頃から大好きだった藤孝様が望んだのだろうか…

本能寺の変の後、城内が混乱して殺されかけた玉と子供達を優しく守ってくださった藤孝様が光秀を死に追いやったのだろうか…



旧細川藩、佐賀関大火のショックに加え、そんなモヤモヤを抱えて過ごした2ヶ月でした。


それでも藤孝様は玉と子供達を守ってくださった事に代わりはありません。

藤孝様が光秀を憎んでの事であれば、本能寺の変直後に殺されかけた玉の事も、その子供達も見殺しにしたでしょう。

藤孝様が光秀に加担しなかったのは光秀に原因があったと思われますし、悲しくは思ってもやはり大好きだった藤孝様を恨む気にはなれません。



ちなみに1942年6月のミッドウェイの戦いでお亡くなりになった友永丈市大尉は、雰囲気がちょうど藤孝様と忠興の真ん中のような方で、優しい中にも芯の強さを感じるお方でした。

今でも時折大尉の事を懐かしく思い出します。





















昨年11月に大火事で壊滅的な被害を負った佐賀関では、避難所は年末に解体し、数日前に公費解体の受付も始まったそうです。


火事にあった田中地区の隣の神山地区には椎根津彦(しいねつひこ)神社というお社があります。


この神社のご祭神、椎根津彦命という神様は、実は神武天皇東征の折、水先案内をして神武天皇をお助けして国津神から天津神になられたお方で、宇佐神宮の神武天皇東征の碑文にその名が刻まれていたり、宮津の元伊勢とも言われる籠神社(このじんじゃ)にもその坐像があったりと重要な役割をなさった神様でいらっしゃいます。


また、佐賀関の早吸日女神社(はやすいひめじんじゃ)は神武天皇が通りかかった際、海底で大蛸が守っていた剣を真砂(まさご)、黒砂(いさご)姉妹が天皇に献上し、神武天皇が神剣として佐賀関で建国を請願したのが始まりで、紀元前667年の創建だと言われています。

地元では「権現様」とも言われて親しまれていました。


普通は神様にお仕えするのは馬や牛なのですが、こちらでは蛸が眷属となっていて願望成就のために蛸断ち祈願をしたりします。



大火事の際は椎根津彦神社の御神体が近くの早吸日女神社に移管していたというニュースを見て安心しました。


早吸日女神社は地元では霊験あらたかとされているらしく、私自身も病院で治らなかった病気があった時に祖父母に連れられて祈祷をしていただいた事がありました。


その時目を閉じていたにも関わらず、不思議な事に私の右後ろから髪がボサボサの巫女姿の女性が何か液体の入ったフラスコを差し出すのが脳裏にはっきり浮かびました。


「これは誰?」


と思ったものの、その一瞬の事なので他に手かがりも無く何の事か分からないままですが、それから良い医師や治療法に巡り逢えてトントン拍子で体調が良くなりました。



この初代天皇・神武天皇に縁のある佐賀関で、霊験あらたかとも言われる神社のある佐賀関で、何故あのような大火事が起きたのかと思っていたのですが、先日先生に仏様からの御霊示を伺うと、どうも罰当たりな事とは真逆で、人々を助ける為だったのだそうです。


生徒の皆さんがお金を出してお話しを聞いている内容ですので詳細を書く事は出来ませんが、とにかく佐賀関の皆さんはご神仏様にお護りいただけている事は間違いないそうで安心しました。


これからも田中地区の皆さん、佐賀関の皆さんが健康でいられるよう微力ながら毎日の修法で請願していきたいと思います。



Wikipediaからの画像ですが、早吸日女神社の瓦がとても立派で、龍神様が真ん中に鎮座なさっているだけでなく、瓦で出来た龍宮城と亀に乗った浦島太郎が飾られています。

今年こそはお参りしたい!








昨年も皆様のブログで勉強させていただいたり、目と心を楽しませていただいたりと、お陰様で楽しい一年でした。


また、遅々としたブログであるにも関わらずフォローしてくださっている皆様、訪問してくださる皆様、ありがとうございます🙇🏻‍♂️



年末には細川家ともご縁のある大分県佐賀関に行き、大火事の対岸から彼と一緒に修法をさせていただきました。


私自身、これまでもお世話になった方が病気になった時に彼と病気平癒の修法をさせていただいていました。

複数の癌があったにも関わらず手術直前に全て消えたり、もう一度癌になって手術しても5年生存率が非常に低いにも関わらず5年過ぎて一層元気になられたりしているのを見て仏様のお力の凄さを目の当たりにしては来ました。


なのに彼からずっと

「修法を真剣に覚えなさい」

と言われても、彼や先生のお弟子さんに任せて逃げていました。



今回佐賀関で修法していると、油断すると彼の身体がグラっとくるくらいの非常に強い風が吹いていたにも関わらず、ある段階まで進むとその風がピタッと止むのです。

それも2回場所を変えて行い、2回とも!

偶然では無く、修法による仏様のお力だとはっきり突きつけられ「本気で取り組まねば」と決意させられた年末でした。



本年もどうぞよろしくお願いします✨🎍✨

うみたまごにて

「笑う門には福(フク,フグ)来たる」

だそうです☺️


皆様の健康と益々のご発展を心より祈念いたします。

ニュースを見た時、ショックのあまり言葉が出ず、ここ数日Youtubeでニュース映像をくまなく見ていました。

知っている人が映っていないか、田中がどうなっているのか、知っている人の家は大丈夫か知りたくて。



随分昔に上げた記事ですが、生まれてくる前、前世でミッドウェイの海戦で死んだと聞いていた彼が目の前で掻き消えた直後、自分も死んだ事を自覚すると、お墓参りに来ていた母の口に吸い込まれるように入った出来事を書きました。


母の近くで祖父が休憩のために腰掛けていた階段、

それが今回の火事で燃えた東林庵。

祖父が私のために墓参りに行った場所が、あの佐賀関の田中でした。


佐賀関は江戸時代、肥後細川藩の飛地領でした。

過去世で夫だった彼と出会うまで、京都の細川ガラシャと佐賀関は結び付かなかったのですが、なぜか生まれたのは細川家の飛地領にある家。

私自身過去世で息子だった細川忠利が鳥居を寄贈した早吸日女神社で七五三のお参りをしました。

佐賀関のすぐ隣の臼杵市は、次女多羅の嫁いだ旧稲葉藩。
大好きな街でよく行きました。

侍女であった「るいさ」と彼女の子供を送り届けた豊後。

ガラシャ時代憧れた南蛮文化の最も色濃かった豊後。

私が自害しなければ、夫忠興と久しぶりに旅していたはずの豊後。


自覚しないままに関係する土地を選んで生まれてきました。

生まれ変わる時、ほとんどの方が自覚せずとも縁のある土地を選んで生まれてくるのだそうです。


小さい頃お墓参りや椎根津彦神社のお祭りで両親に連れられて行った佐賀関の田中が…



父がお祭りの夜店の間を歩いていると

「どげーな?(どうしてるん?)」

と声をかけられて

「あぁ、いいで。

また顔出さんせー。

(良いよ、元気だよ。また顔出しなよ。)」

と嬉しそうに応える。

そんなやり取りをよく目にしていました。


もう亡くなられたけど、大人になって一人で知り合いのおばちゃんの所に行くと

「とーちゃんは元気な。

はいコーヒー持っていかんせー。

(お父さんは元気か?

さあ、缶コーヒー持っていきなさい)」

と良くしてもらったり。


田中の方言は漁師町なのに、キツさや荒々しさを感じませんでした。

皆優しかった。


せど(背戸?瀬戸?)という、2m有るか無いかの小道が沢山ありました。

それが火事の拡大の一因になってしまったそうですが、人の距離も近くて温かみのある土地でした。


全国だったか大分県だったか忘れましたが、10年以上前にどこかの新聞の記事で

「近隣住民に支えられていると感じるか」

というアンケートに対して「はい」という返答が平均50%を切っていたのに対して、佐賀関は94%だか97%だかで、飛び抜けて高い数値だったというのを読みました。


今回あれほどの大火事で、放水ホースが何本も横たわって歩きづらい中で高齢者が多くて避難しようにもしづらい状況なのに、死者が火元の男性と思われる方一人だったのは、普段からお互いに声を掛け合い、助け合っていたからこそ。

逃げる人達はまだ家の中にいて火事に気付いていない人達に声をかけ、避難の時も助け合っていたそうです。



88歳の女性が、報道ステーションの取材に対して

「プレハブのような家でもいい。

これからも一人で住んでいきたい。」

と答えていました。


それに対してインタビューした男性は

「強いですね。」

と言っていました。


火災直後でまだショック状態です。

家も財産も全て無くなったばかりの方に対してそれは…と思ってしまいました。


歳を取ると子供達が心配して、街中の自分の近くの養護施設に入所させたり同居したりするケースが多いので、あの女性は

「慣れ親しんだ田中で一生を終えたい」

という意味だったのではないかと思います。



まだまだ多くの方が市民センターに避難しています。

田中のほとんどの人達が着の身着のままで焼け出されてしまいました。

寒くないか、食べ物や衣類は大丈夫か、病気になっていないか、色々と気になります。


道の駅の駅長さん、すぐに温かい食べ物や味噌汁を差し入れてくださりありがとうございました。



主人には

「最近豊後水道や日向灘で地震が多かった。

もしあの地域で地震が来たら、倒壊した家屋の下敷きと火事でもっと人が死んでいたかもしれない。

皆命があって良かったんだよ。

補償や支援もあるだろう。

生きていれば何とかなる。」

と慰められました。


とにかく佐賀関の皆さんの健康と幸せを祈り、募金し、見守り続けたいと思います。



三浦春馬さんと新垣結衣さん主演の『恋空』という映画で、新垣結衣さんが高校から階段を下っていく時、美しかった時の田中と東林庵、今回飛び火で一部火災にあった蔦島が映っています。


また活気のある田中が戻りますように。