前の記事で、
>詳しい事はこのブログに嫌になるほど書いてきたので、以下省略。
と書いておいたんだけど、誰も見ていない。(笑)
質問があるのなら、もっと前の記事からその都度聞いておかないと、後からだと何がなんだかさっぱりわからなくなるよ。
もっとも、このブログを見に来るのは大半がアンチとオウマーだから、誰も理解しようとは思ってないけどね。
で、輪廻転生である。
釈迦牟尼が悟りを開いた時、涅槃しようとして梵天に止められる。
仏教界では有名な話だが、一般人にとってはどうでもいい。
この文章を何も考えずにただ見ているだけだと思うが、「涅槃する」と書かれている。
つまり、ニルヴァーナは場所ではなく、行為だという事になる。
もし、涅槃が場所なら、涅槃に行くという表現になるはずだ。
「行く」のではなく「する」。
つまり、カルマの主体である魂は涅槃に行けず、魂を捨て去り魂から離れる事が涅槃だという事になる。
まあ、この解釈も翻訳が正しいという条件付きでのものではある。
翻訳というものは結構大切で、前に真我の状態にあるとき云々というコメントが有った。
それに対して、真我に状態はないよと答えた。
で、思考停止に陥ったのかその後何の音沙汰もなし。
状態とは相対の話であって、無常であり変化するものである。
なので、絶対たる真我に状態などあろうはずがない。
これはどういう事なのだろうか。
ヨーガスートラにそう書かれているじゃないかという反論があるかもしれない。
しかし、果たして本当にそうなのだろうか。
その書かれているという本、それは日本人が書いた翻訳本だよね。
ヨーガスートラ原著にそんな事が書かれているのだろうか。
まあ、個人的には原著を見たことがないし、見てもさっぱり分からないので想像するしか無いのだが、おそらくそこにはこう書かれているはずだ。
アートマンの状態にあるとき。
うん、確かにこれなら意味が通じる。
この場合のアートマンとは梵我一如における、梵(ブラフマン)に対する我(アートマン)である。
とまあ、こんな感じで続く。