終末と救済の幻想10 | 法友(とも)へ

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p216

「初期の段階では、オウムはヨーガと大乗仏教に比較的健全な焦点を当てていたが、麻原彰晃のヴィジョンははじめから黙示的だった。」

 

ズレてはいるが、正しいと言える部分もある。

麻原は最初からヴァジラヤーナである。

そう見せないように装っていただけだ。

初期の段階がいつ頃を指しているのか分からないが、クンダリニーやシヴァというのは明らかにヨーガである。

仏教に関しては、最初は阿含経典、次に大乗経典、最後に南伝大蔵経という変遷を辿っている。

最初から最後まで一貫しているのは、ヨーガそしてヴァジラヤーナである。

仏教には、グルという考え方がそもそも無いのだから。

 

p223

第十章 オウムからの生還

 

この章はオウムを知らない人にとって、かなり読み応えのあるものなのではないだろうか。

元信者たちの、悲しみ・苦しみ・葛藤が伝わってくる。

それと比較して、アレフの連中のなんとのうのうと生きている事か。

 

「彼らは、自ら去ったオウムの世界に対する関係だけでなく、戻ってきた社会に対する関係でも、自分自身に関してきわめていたたまれない感情を持っていた。」

「オウム体験の意味をめぐる葛藤は、個人的な罪や責任というつらい問題を含んでおり、その問題は常に心理的・道徳的なものであるだけでなく、ときには法的なものであった。」

 

p224

「彼らは矛盾した感情・・あがめていたグルに裏切られ捨てられたという感情・・裁判にかけられている信者に対して罪悪感を経験した・・グルを「見捨てた」ことに対して恥辱を感じていた。」

「オウムに入る以前に野心的で知的な計画を抱いていた元学生は「私の目標はオウムとともに死にました」と悲しげに私に言った。」

「個々の信者がどのように生き残ったかについて、さらに深く検討することによって、オウムの意味について多くを学ぶことができよう。」

「私がインタビューした者の中で、直接、東京のサリン攻撃のせいで辞めた者はだれもいなかった。攻撃当時、実際のところ、彼らは概して、それをしたのはだれか、まったくわからなかったのだ。」

「彼らは、・・オウムが殺人を犯したということと向き合えなかった。彼らにとってそのような結論にいたるのは、心理的にあまりに多くの危険にさらされることであった。」

 

この頃、自殺した奴が何人もいたなあ。

僕の知り合いだけでも二人死んでいるので、教団全体では何人なんだろうなあ。

世間では自業自得と言われたけど、全くその通りだ。