生きているとはどういう事かの前に、何が生きているのか?である。
これは私・自分、つまりエゴである。
自分が存在していなければ、他人や動物が生きている事を認識出来ない。
それに、そもそも他人や動物が生きている事は動いているから生きていると思っているだけであり、他人から見れば他人の自分が直接にそれを知る方法はない。
そして、エゴを構成しているのが五蘊であり、この五蘊の活動が生きているという事であり、その活動の停止が死である。
しかも、この五蘊は肉体に付随しているものではない。
それは、死んだ人間が肉体を離れ、霊体になっても自由に活動している事を見れば明らかである。
肉体が動かなくなり冷たくなっても、霊体は生きている時と同じく意思を持ち動き回り、話をする事も出来る。
霊体にはまだ、 眼・耳・鼻・舌・身・意(げんにびぜっしんい)、 色声香味触法 (しきしょうこうみそくほう)という外界を認識する感覚が残っている。
ここから、記憶や思考は脳に依存していないという何とも不思議な事実を認めざるを得なくなる。
なぜなら、血流は途絶え肉体はすでに冷たくなり、脳はその活動を停止しているからだ。