否定するにせよ肯定するにせよ、全てというところがポイントである。
これがまた恐ろしいほどに難しい。
一般人の場合、自分は全て肯定できたとしても、他人の全てを肯定するなど出来るはずもない。
どんな人格者であったとしても、必ず敵と味方を分けて敵とみなした相手を否定する。
オウム事件を見れば分かるように、麻原を肯定出来る人間など何処にもいない。
どんな善人でも、どんなに素晴らしい愛を説いていている人物でも、一般人である限り麻原は間違いなく悪人であり否定する存在なのだ。
で、修行者にとってはどのような実践になるかというと、否定とは幻影と見るという事であり、肯定とは愛するという事である。
先に愛する実践から説明するが、全てを愛するとは善人を愛する悪人も愛する、被害者を愛する加害者も愛する、善も悪もなくすべての人を愛するという実践になる。
もうこの段階ですでに実践は不可能だということが分かったと思うが、愛の実践は人だけでなく全ての生き物を愛する、ゴキブリもウジ虫も全て人間と平等に愛する。
さらに生き物だけにとどまらず、この大地も大気も地球も他の星も宇宙の全てを自分を愛するのと同じように愛する。
この宇宙全体にまで及ぶ心の働きを無量心と呼ぶわけだが、仏教ではこの愛をさらに詳しく四つに分類している。
なぜ愛の実践が宇宙全体に及ばなければならないのかと言えば、宇宙全体がプラクリティによって生み出されたただ一つのものだからである。
元々一つしかないのだから、その中に私という区别は存在しない。
これが自と他の区别をしないという破地獄の実践であり、自分が他人に何かをするという四無量心など有り得ない。
ただ、未熟な修行者にとってはこのブログに書かれている事が全く理解出来ない。
したがって、実践しやすいように方便が説かれる必要があり、経典と呼ばれるものの大部分が方便である。