沖正弘は合掌してから1回だけ短く「オーム」と唱え、講話が始まった。
オウムの場合、合掌するところまでは同じ、その後1回だけではなく3回しかも長く伸ばして唱える。
沖ヨガとオウムでは、合掌してオウムを唱え、それから説法なり講話なりの話が始まる。
その基本構造が同じであり、この同じ基本構造を持つ宗教なりヨガなりの団体の存在は聞いたことがない。
講話の後に質技応答が行われた。
これもまたオウムと同じ。
思えば沖ヨガはオウムと非常によく似ている。
というより、正しくはオウムがまるで沖ヨガをまねて作られた集団のようだという事ではあるが。
オウムは初期の頃こそ海外の集団に似せてサンガを作ったりもしたが、真理教になる頃からサンガもなくなりオウム独自の集団に変化していくのだが、それはあまりにも沖ヨガに似ているのだ。
いろいろな質問がなされたが、そのうちのいくつかを上げてみよう。
沖正弘と話がしたいんだと言っていた東大生の質問は、要するに「大人たちは分かってくれない。」というものだった。
何をアホな事を質問しているんだ、そんな事は当たり前じゃないかと、経験上思っていたが、沖正弘の答えが素晴らしかった。
「他人の事は分からない。」
一刀両断である。
実に明快な答えだ。
親子であっても他人。
分かるはずがない。
そこにあるのは、仲のいい他人と仲の悪い他人だけ。
他人の事など誰にも分からない。
その答えを聞いた東大生は、続けて質問した。
「では、大人とは何ですか?」
沖正弘はこれまた明快に答えを出す。
「心の欲する所に従えども矩を 踰えず。」
「それが大人だ。」
なるほどなあ。
そう思って感心した。
世の中には誰も大人なんていないんだ。
沖正弘のエネルギーは、それが間違いなく大人のものであることを示している。
その大人から発せられた言葉なのだから、非常に説得力があった。