教義と修行体系41 | 法友(とも)へ

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私は誰か?の答え、それは「私はうんこである。」というものである。

 

これは単なる事実なのであるが、普通の人はその事に気付かない。

 

修行者だけが、その事実に気付く事が出来る。

 

まあ、一方的にうんこを悪く言うのもなんだけど、たとえ話ということで。

 

 

皿にうんこが乗っている。

 

このうんこが私であり、うんこが洗い流されれば解脱である。

 

心の作用を止滅する、すなわちうんこが消え去り皿だけが残る事が解脱である。

 

であるにも関わらず、私は四無量心を実践する綺麗なうんこだから偉いのだ、と主張する連中が多いのには驚かされる。

 

どうしてそんなに傲慢になれるのか、全く不思議でならない。

 

 

綺麗なうんこも汚いうんこも同じうんこである。

 

少しでもうんこが残っていれば解脱は有り得ない。

 

また、こんな事を書くと世間から叩かれそうだけど、麻原は見事な表現を用いて説明している。

 

その一つが、「美しい心を作り上げ、そしてそこから離れて。」であり、重要なのは「そこから離れて」、つまり心から離れるという事である。

 

「美しい心を作り上げ」つまり、綺麗なうんこを作り上げる事が解脱であるとは一言も言ってはいない。

 

個人的には、中学生程度の文章読解力があれば簡単に意味を理解出来ると思うのだが、どうしてオウム関係者は誰も理解出来ないのだろうか?

 

 

もう一つが、愛の実践についての「最後は、愛そのものになる。」である。

 

四無量心の実践とは、まず自と他の区別をしてから自分が他に対して行うものである。

 

自と他の区別が残っている限り、永遠に解脱はしない。

 

綺麗事で四無量心と言いつつ、うんこ、すなわちエゴを満足させているだけである。

 

これに対して、「愛そのもの」には自と他の区別はもちろん無いし、実践ですらない。

 

ただ、愛が存在しているだけである。

 

重要なのは愛そのものであるにも関わらず、オウム関係者はせっせと自と他の区別をする実践を続けている。

 

 

最後の「愛そのものになる」の部分についても、正しくは、麻原は「愛そのものである」と表現している。

 

「愛そのものになる」と「愛そのものである」の違いは直ぐに分かると思うが、もし分からないのであれば、このブログに書かれている事を何一つ理解出来ていないということなのだろう。