インドの宗教関係の本、とはいっても原典ではなく日本語訳しか読んだことがないのだが、ヒンズー教、バラモン教、ウパニシャッド、ヨーガなどなどの本を読んでいると違和感を感じる部分がある。
その違和感とは、文章が矛盾しているという感覚である。
その矛盾は、最も肝心な部分によく現れる。
どう考えても、意味が通じないのだ。
その違和感を感じる部分、それはアートマンとか真我という言葉の使われ方についてだった。
何回も同じ部分を繰り返し読んでいるうちに、その違和感の正体に気づいた。
答えは簡単だった。
アートマンという言葉には、複数の意味を持たせてある。
ということだ。
僕がこのことに気づいたのは、オウムに入信する前、1985年頃の事だったと思う。
専門家ではないのでインドの言語表現がどうなっているのか分からないが、アートマンという言葉は一つの点を指す言葉ではなく、解脱に至る道程の一本のラインを示しているということだ。
そのラインの細かい分析は置いといて、最低限理解しておくべき点が二つある。
一つは真我であり、もう一つが、おそらくこれがアートマンの意味としてよく使われており大きな混乱を招いているのではないかと思うが、それは魂とか、個人の魂と呼ばれるものである。
「真我」と「個人の魂」の両方にアートマンという同じ言葉を使われたら、普通は意味が理解できないと思う。
で、落下するアートマンは個人の魂であり、落下しないアートマンは真我だということになる。
当然のことながら、真我は落下しない。
落下するのは、個人の魂だけである。
まあ、こんな事を正しく理解する必要があるのは、修行者だけなのだが。(笑)
真我とは何かを理解するのはとても難しい。
なのだが、真我の理解なくして解脱は有り得ない。
初心者はとりあえず、真我とはニルヴァーナの事である。
ぐらいに考えておいて、日々の修行に励んだほうが良い。
いくらなんでもニルヴァーナが欲六界に落下して来るとは考えないだろうから、落下しないものとしてしっかりと認識できる。(笑)