ここに載っている20数名は全員顔見知りだ。
少なくとも何度か話をした事のある者達ばかりで、なかでもCSIの連中とは同じサティアンにいた腐れ縁である。(笑)
当時出家したばかりのM君がやたらと重宝されていて本人も戸惑っていたが、そういう事だったのかと納得した。
この広瀬の手記と、ダンジグのレポートやその場にいた僕の記憶とは、いくつかの食い違いがある。
これが文書にしてまとめられることの恐ろしさだと思う。
それはオウム本全てに共通していることではあるが、本の内容を確かめもせずに鵜呑みにしてしまう、おそらくは殆どの日本人がそうなのだろうけれど、その人達にとっては間違った知識が事実として確定してしまうのだ。
まず、ダンジグのレポートにおいては、遠藤がボツリヌス菌の培養に成功し、少なくとも3つの菌株を持っていたとされている。
この部分、すなわちCMIの単独ワークの部分については、広瀬はノータッチであり事実がどうかは知りようがない。
それは中川についても同様である。
当時、サティアンは一般のサマナは立入禁止。
電子錠でロックされ監視カメラに向かって部署と名前を言わなければならず、場合によっては大師も立入禁止の指示が出ることもあった。
この場合、大師が名前を名乗っても中に入る事は出来ない。
そんなサティアンの中でも自由に部屋に出入りが出来たCSIと違い、CMIは常に施錠されており、まさに秘密の場所であった。
この完璧なまでの秘密主義が、CMIが厚生省と名前を変えた後も受け継がれ、秘密裏にサリンを完成させることになる。
当時、ボツリヌスの存在を確認したとされるのは、遠藤、村井、上祐の3人のみ。
遠藤と村井はすでに亡くなっており、上祐は所詮素人である。
ボツリヌスが存在したのかどうかについては、残念ながらはっきりとした結論をだすことは不可能である。
何かはあった。
それはラットの実験で致死率が20%から30%であった。
これは遠藤の実験棟でのデータであり、広瀬は全く関与していない。