教義と修行体系21 | 法友(とも)へ

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コメントがあったので軽く解説しておこう。

 

>「私はだれ?」のラマナ・マハリシ、さらに1981年に亡くなった「私はある I am that」のニサルガダッタ・マハラジらにつながる、至極伝統的でオーソドックスな方法です。
> しかしながら、まずしっかりとエゴを確立し、その上で強烈で明確な意思の下に解脱・悟りを希求しない限り、中途半端に修行すると、発狂する可能性が高いので、十分に気を付けた方が良いと思われます。

 

これがコメントである。

 

では、一つずつ見ていこう。

 

 

>「私はだれ?」のラマナ・マハリシ、さらに1981年に亡くなった「私はある I am that」のニサルガダッタ・マハラジらにつながる、至極伝統的でオーソドックスな方法です。

 

ここで解説しているのは、マハルシやマハラジというよりもダグラス・ハーディングの手法に近い。

 

ただ、ハーディングの手法は何らかの道具を使うのに対して、ここでは何も道具を使っていない。

 

使うのには自身の思考のみ。

 

これが麻原が大好きな思考実験であり、ヨーガ的表現を用いるならジュニアーナヨーガである。


 

>しかしながら、まずしっかりとエゴを確立し、

 

意味不明というか、支離滅裂な文章である。

 

エゴは別にわざわざ確立しなくても、何もしなくても誰にでも確立している。

 

そもそも修行とは、確立してしまっているエゴを崩壊させ止滅させることを目的としているのだ。

 

>その上で強烈で明確な意思の下に解脱・悟りを希求しない限り、

 

この文章も意味不明。

 

そもそもこのシリーズの一番最初に「自分は何をしたいのか?」と問うている。

 

その答えが「解脱」でなければ、つまり修行者ではない一般人ということになるが、そもそも修行などしない。

 

>中途半端に修行すると、

 

このコメントに中で一番おかしい文章と言っていいと思う。

 

修行とは、そもそも全力で行うものである。

 

つまりこの文章は、「中途半端な全力で」と言っていることになる。

 

まあ、たしかに素晴らしい文学的表現ではある。

 

一般人は文学的表現を非常に好むが、修行者にとっては害にしかならない。

 

 

>発狂する可能性が高いので、

 

発狂とは、そもそも何だろうか?

 

そして、発狂することは悪いことなのだろうか?

 

ここでの悪いとは、一般人にとってと修行者にとっての両方を含む。

 

オウムの教義においては、最終解脱するまでは誰もが狂人である。

 

また、麻原は、いわゆる頭のおかしい人、現代の言葉ではメンヘラということになると思うが、その人達について、「一生懸命功徳を積まれて、修行をなさってきた人。」と言っている。

 

>十分に気を付けた方が良いと思われます。

 

何をどう気をつけるというのだろうか。

 

気をつけたところで危険なものは危険であり、気をつけなくても安全なものは安全である。

 

それと、このブログで何回も書いているが、修行をしておかしくなる人はいない。

 

修行というものは、自分の本性をさらけ出す努力・技法のことである。

 

おかしくなったように見えるとしたら、その人は元からおかしかったという事になる。

 

それに、おかしくなったというのは、大抵は自己申告である。

 

確かに、自分の身に降りかかる不幸を修行のせいにすれば気が晴れるのだろう。

 

 

 

何度も書いているが、論点を一つに絞らないと支離滅裂になるだけである。

 

逆に言えば、論点を一つに絞ることが出来たなら、すでに悟りを得ていると言ってもいい。