解説 | 法友(とも)へ

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修行者にとって人生というものは、ただ生きているだけで次々と疑問が沸いてくるものである。

 

その全ての答えがこの中にある。

 

そして、そのほとんど全てが、受け入れ難いものであるだろう。

 

 

それは当然の事だ。

 

エゴが嫌がっているのだから。

 

エゴは現象を細分化してそれに名前を付け、たくさんの知識を記憶する事で満足する。

 

 

修行とは、これとは真逆で、極めて単純な実践を繰り返すことである。

 

目の前に真実が有るにも関わらず、エゴは真実を知る事を嫌がる。

 

だから、様々な心の働きに対する答えをパターン化して、ラージャヨーガの手法を使って繰り返す。

 

これが記憶修習である。

 

 

記憶修習を試験勉強の暗記と同じだと思っている無智な者もいるだろうが、それは全く違う。

 

知識を増やすことは無意味なだけでなく、その知識から抜け出せなくなるという弊害をもたらす。

 

修行者にとって必要なのは、知識でも、信じることでもなく、実践することである。

 

 

実践するベースとなるのが、ジュニアーナヨーガによる分析である。

 

それをラージャヨーガによる手法で、繰り返し実践する。

 

そのとき、クンダリニーの上昇を妨げるものは、何もなくなる。