原始仏典に書かれている内容は、とても悲しい。
そこには金太郎飴のように、繰り返し同じ事が書かれている。
アーナンダがこう言いました。
100年間、伝言ゲームを繰り返し、その内容が伝えられた。
これを現代に当てはめると、今から80年後に、井上の言った事だけを元にして、オウム真理教が語られるようなものだ。
まあ、他の皆さんはどう思うのか知らないが、僕の立場からは、はっきりとそれは違うと言いたい。
原始仏典には、はっきりと欠けている部分があると言える。
これは、釈迦牟尼がアーナンダには理解出来ないとして語らなかったのか、あるいはアーナンダが理解出来なかったために人に語らなかったのか、そのどちらかかもしれない。
解脱とは真我独存である。
釈迦牟尼はヨーガを修習して、真我独存を達成した。
その釈迦牟尼が、真我について語らないのは明らかにおかしいのだ。
しかし、この事は、オウムに当てはめてみれば、ある程度推測することは出来る。
オウムの教義の根幹をなすものは、一切皆空・真我独存である。
にも拘らず、それを理解している弟子はほとんどいない。
釈迦牟尼にせよ、麻原にせよ、対機説法である。
僕は麻原から直接その話を聞いているし、早川もまた手記の中でそのことを語っている。
時代は変わっても、圧倒的多数の弟子たちは、その話を聞く資格がなかったということなのだろう。
結局のところ、正しい教えなどというものは、一般人には理解出来ないし、伝えても意味がないものなのだろう。
まあ、仕方があるまい。
民主主義というものは、多数派が正義なのだから。(笑)