オウムはなぜ消滅しないのか22 | 法友(とも)へ

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地下鉄サリン事件の実行犯たちが、全員サリンを撒いてしまったというのは普通に考えればおかしな話である。

 

5人全員が同じ場所にいて、一緒に行動したのならともかく、5人が別々に行動して、しかも一人でいながら同じ事を行うというのは、オウムにいた人間としてどうにも納得出来ない。

 

さらに変なのは、サリンを撒いておきながら、それを反省したり後悔したりしている点である。

 

 

人を殺すことは罪である事は小学生でも分かる。

 

しかし、実行犯たちはサリンを撒いてしまった。

 

つまり実行犯たちは、大人→小学生以下→大人という精神構造の変遷を辿ったという事になる。

 

本当にそんな事があるのだろうか?

 

 

ちなみに、オウムは殺人を肯定する教義であると言われているが、これもおかしな表現である。

 

肯定するとは、いったいどういう意味で使っているのだろうか?

 

僕の認識では、肯定する前には必ず、善か悪か、つまりそれが正しいか間違っているのかの判断がある。

 

 

麻原は、殺人を善とか悪とかいった事は無い。

 

麻原が言っていたのは、それが善業か悪業かということである。

 

善悪には判断があるが、善業・悪業には判断がない。

 

ただの事実である。

 

 

正義には判断があり、それは立場によって違う。

 

ところが、善業・悪業というカルマには判断がなく、それは誰にとっても平等である。

 

したがって、オウムの教義においては、殺人は否定も肯定もされず、ただカルマによって生起するだけという認識である。

 

そして、殺人は悪業となる。