オウムはなぜ消滅しないのか11 | 法友(とも)へ

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経済がどうの、グローバルがどうの、仏典がどうのと色々書かれているが、自分の言葉では何も語られていない。

 

おまけに全部、的外れである。

 

こんなにも何も知らずに本が出せてしまうとは、日本は本当に大丈夫なのだろうか?

 

 

p130

「クンダリニーは、仏教的には菩提心という意味である。」

「つまり、クンダリニー・ヨーガは悟りを求める心を強固にするという意味になる。」

 

もはや何も言うまい。

 

てか、呆れてものが言えない。

 

 

p135から、「シヴァ神とは何か」について書かれている。

 

まあ、諸説あるわけだから、知識をひけらかしたい気持ちは分かる。

 

しかし、オウムについて語るなら、オウムにおけるシヴァ神について語ってもらいたい。

 

はっきり言って、オウムにおけるシヴァ神については何も書かれていない。

 

まさか、シヴァ神を人格神だと思っているんじゃあるまいな。(笑)

 

 

p137

「アートマンを、ブラフマンと一体化させた境地を実現するところに狙いがあるのである。」

 

なんだかなあ。

 

オウムの教義について語ってもらいたいんだけどなあ。(笑)

 

これは自と他の区別と似ているのだが、自と他の区別をしているのは、その個人である。

 

自と他には、初めから区別などない。

 

 

自と他の区別がないからこそ、他に対する批判・攻撃は自分を傷つけることになる。

 

自分が傷つくことが苦しくて、ますます他に対する攻撃を強める。

 

これを延々と繰り返すのが無間地獄である。

 

 

自分が苦しいのであれば、その苦しみを解消する方法は、他を愛する以外にない。

 

それが四無量心の実践の理論的背景である。

 

 

アートマンとブラフマンについても同じ。

 

アートマンとブラフマンを分離したのは個人である。

 

アートマンとブラフマンは初めから分離などしていない。

 

「アートマン」と「ブラフマン」という二つの言葉を使っているのは、智慧がない者に説明するための方便に過ぎない。

 

 

エゴは決して、解脱などすることは出来ない。

 

出来るのは、エゴを滅することだけだ。

 

それがすなわち、心の作用を止滅する事である。

 

菩提心であろうと、四無量心であろうと、それが心の作用である限り、所詮はエゴに過ぎないのだ。