オウムはなぜ消滅しないのか② | 法友(とも)へ

法友(とも)へ

ブログの説明を入力します。

突っ込みどころは満載なので、その一部だけ。(笑)

 

 

p15

どうしてオウムは事件を起こしたのか?

それに対する、「敗戦後の日本のシステムのどこかに欠陥があった」というもの。

 

このような意見は割とよく目にするが、僕の意見は全く違う。

 

時代がどうであろうと、世の中がどうであろうと、オウムはオウムであり、事件を起こしただろう。

 

麻原は麻原であり、その弟子たちはその弟子たちだ。

 

事件の原因はオウムの外側にはない。

 

原因は全て、オウムの内側にある。

 

 

p20

初期の頃のオウムは、まじめにヨーガの修行をし、瞑想修行を続けていた。

その後に非常に危険な考え方を持つ。

 

これも完全な間違いだ。

 

まじめに修行をするのは、最初から最後まで変わらない。

 

危険な考え方を持つのも、最初から最後まで変わらない。

 

ただ、それが表面化しなかっただけだ。

 

 

p22

これはもう、ほとんどどうしたらいいのか分からない。(笑)

前のページには89年の事が書かれており、このページにはその後の95年までの6年間の事が書かれている。

その間に、施設や制度はめまぐるしく変遷を繰り返しており、6年間を1ページにまとめるにはどう考えても無理がある。

 

「出家信者は上九一色村の教団施設(サティアン)内に居住し」とあるが、これは端折りすぎ。(笑)

 

富士山総本部道場や全国にある各支部、その他の教団施設の事が全く分からない。

 

そもそも、富士山総本部道場が建立された時点では、麻原とその家族は富士山総本部道場内に居住しており、一番最初のサティアンすらまだ存在していない。

 

また、富士山総本部道場に隣接する第4サティアンは、当初はCSIやその他の部署の倉庫に使われており、通常は倉庫と呼ばれていた。

 

この内部に、麻原の説法テープを24時間流しっぱなしにする独房が多数作られ、坂本弁護士事件後の中川の意識のポアに成功したと麻原が判断し、サマナ全員がここに入れられることとなるのだが、第4サティアンと呼ばれるようになるのはしばらく後の事である。

 

 

つまり、サティアンの第いくつという番号は、必ずしも建てられた順番というわけでもない。

 

第4サティアンの後に第2サティアンが建てられており、第6サティアンが建てられたときに、既にあった建物に、3、4、5の番号が振られたようである。