真我独存が解脱であり、幻影の中の我はその真逆の位置にいる。
ここでまた勘違いが生じるのだろうと思うが、我が解脱するのではない。
我を滅することが、幻影を滅することが解脱である。
この我とは何かと言えば、それは心の働きである。
まあ、私でも、自分でも、我でも、エゴでも、名前はなんでもいいのだが、心の働きがなくなれば、私と言っている主体がなくなることは容易に理解出来るだろう。
それゆえに、ヨーガの目的は心の作用を止滅することである。
ということになる。
実に解かり易い。
このヨーガの理路整然とした明快さに比べれば、仏教経典など回りくどいただの文学作品であることが理解出来るだろう。
仏教から学ぶものがあるとするなら、とりあえず麻原が言ったように「天上天下真我独存」だけでよい。
それともうひとつ。
前に質問があったが、「綺麗な心と汚れた心はどこまでがエゴですか?」
とかなんとかいうものの答え。
これは全部がエゴであるというものなのだが、当たり前すぎるほど当たり前な話である。
心の働きは全て幻影の中にあるのだから、当然に全てがエゴである。
それに、綺麗だとか汚いとか、善だとか悪だとか、それら全ての相対的なものは、解脱という絶対的な世界にはない。
エゴはすぐに相対的な話を持ち出してきては、あ~だこ~だと屁理屈をこねて真我独存を認めようとしない。
なぜなら、修行をして、真我独存が達成されたなら、エゴは死ぬからだ。
エゴはずっと自分が生きていて、煩悩を貪りたいと思っている。
死ぬのが怖いのだ。
そして、この世界に存在するあらゆる欲求は、どんなに綺麗事を並べたとしても、全て煩悩である。