方便と教義の両方が混在しているのは、何もオウムに限った事ではない。
キリスト教においても、仏教においても同じ事である。
「神が人間を作りたもうた。」
誰が信じるんだ、そんな与太話!(笑)
「阿弥陀様におすがりすれば救われる。」
ふざけるな!いい加減にしろ!
である。
だからといって、キリスト教や仏教の教えが、100%全部間違っているのかと言えばそうではない。
そこには、大量の方便の中に、わずかながらも真理がある。
その構造は、結局オウムと同じなのだ。
ただ、大勢の人々は、キリスト教や仏教を、無思考状態で盲信してしまう。
経典に書かれている事は全て正しいとしてしまうのだ。
その内容が矛盾しているにも関わらずである。
まあ、結局世の中というのは、そういうものなのかもしれない。
経典に限らず、本というものはその中身がほとんど役に立たない。
200ページの中で役に立つのは、せいぜい5ページぐらいだろう。
同じ系統の本を読む場合、2冊目からは内容が重複するので、1冊目よりもさらに役に立たなくなる。
絵の本を随分と読んではみたものの、自分が知りたい情報はほとんど得られていない。
同じように、オウムの教義の中から、解脱するための方法を探ってみたとしても、見つけ出すのは非常に困難である。
元々、必要な情報の絶対量が少ないのだ。
絵の場合、必要な理論や練習方法を知るには、自分で本を書くしかないかなという気がする。(笑)
オウム真理教の教義と修行体系については、すでにこのブログでこれ以上ないほど懇切丁寧に、しかも何度も同じ事を書いて解説してある。
解脱を目指す者にとっては素晴らしい宝の山であるが、謙虚さがなければ観念の崩壊は起こらない。