オウム真理教における救済とは解脱の事である。
これがオウムの教義であり、解脱以外に救済はない。
したがって、この原則から外れたもの、この原則と矛盾するものは全て教義ではない。
まず最初にこれを理解しておかなければならない。
では、3つの救済は何なのかというと、これは方便である。
いきなり解脱とか言って、さあ、修行しましょうと誘っても誰も修行などしない。
なので、現世利益を掲げて、修行の道に入りやすくする。
これが方便の役割である。
もちろん、現世利益をいくら積み重ねても、いつまでたっても解脱などするはずもない。
解脱へ向かうものが教義であり、解脱へ向かわないものが方便なのだから、このふたつはお互いに矛盾する。
では、なぜ方便が必要なのかというと、誰も解脱とは何かを知らないからである。
解脱するまで、解脱とは何かが分からない。
当然、そんな何か分からないもののために修行する者など、誰もいない。
そこをなんとか修行へと意識を向かわせるために、修行への入り口を広げるのが方便であり、その入り口を極限にまで広げたのがタントラヤーナである。
したがって、タントラヤーナにおいては、あらゆる嘘が許される。
で、オウムの教義において、教義と方便はどのくらいの割合なのかというと、これはもうはっきり言ってほとんどが方便である。
救済とは解脱であり、解脱以外の救済はない。
この根本原則を元にして、教義と方便を区別しておかないと、永遠にオウムの教義を理解することなど出来ない。
教義が理解出来ないと、事件がなぜ起こったのかもまた理解できないということになってしまう。