ツァンダリーを達成するためには、エネルギーの保全が絶対条件である。
そのためのベースとなるのが、ヨーガにおけるヤマ・ニヤマであり、仏教における布施・持戒である。
この所作の行においては、基本的に三つの根本煩悩に対する実践を行う。
なぜなら、先に三悪趣に落ちるカルマを切ってからでなければ、他のカルマを切ることが出来ないからである。
その大元は無智であり、本来であればジュニアーナヨーガで無智を滅したいのだが、無智であるがためにジュニアーナヨーガの実践は不可能である。
それゆえに、智慧を必要としない、エネルギー主体のクンダリニーヨーガが推奨される事となる。
したがって、無智に対する実践は、ひたすら修行してエネルギーを強める。
そういう結論になる。
考えるんじゃない、修行しろ!(笑)
である。
続いて、貪り。
人間界は貪りの世界であり、低級霊域とつながっている。
貪りが当たり前になってしまっているので、それが貪りだとは気付かない。
金や物質に対してもそうなのだが、地位や権力に対しても貪っており、しかもそのことに気付かない。
まあ、人間界にいる限り、貪りを完全になくしてしまうと生命維持が出来なくなってしまうので、軽く心に留めておく程度でよい。
そして、一番の問題が地獄のカルマである。
人間は死後、ほぼ全員が三悪趣に落ちるとされているが、その中の90%以上が地獄に落ちるとされる。
この見分け方は簡単で、あれが許せない、これが許せないと言っている人たちである。
許せないとは、自と他の区別をし、自分が正義で他人が悪という判断をして、正義が悪に攻撃することは許される、とする心の働きである。
これはもちろん、間違いなく地獄のカルマである。
この地獄のカルマによる漏れが、修行上の最大のエネルギーロスとなる。
これに対する対処は、とても簡単である。
とにかく、許す。許す。と思えばいい。
悪くないから許すのではない、悪くても悪くなくても許す。
いわゆる、罪を憎んで人を憎まず、である。
よく、卑劣な犯行は許せない。
などという人がいる。
この言葉を聞くたびに、卑劣じゃない犯行ってどんなんだろうとか思ってしまうのだが、まあ、いいか。
「卑劣な犯行は許せない。」
を分解して考えてみると、「卑劣な」は感情。
「犯行」は事実。
「は許せない。」が攻撃。
である。
事実は事実で覆らない。
が、感情による攻撃が地獄のカルマを生む。
そして、感情による攻撃は、事実であるか事実でないかに一切関係がない。
許せない人は、常にあれが許せない。これが許せないといい続けている。
だから、これと逆の実践が、許す。許す。である。
そして、これが、ヨーガの土台となる、非暴力の実践である。
非暴力の実践を続けるとエネルギーにどの様な変化が起きるか。
自分で試してみればいい。
いわゆる布施の実践についても、これも簡単である。
見返りを求めないあらゆる行為が、多大な功徳を生む。
損得勘定は貪りのカルマがあるがゆえであるが、これをやれば世の中のためになるなとか、人のためになるとかを一切抜きにして実践して頂きたい。