帰依③ | 法友(とも)へ

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では、神々の世界とは、オウムの教義においてどのように考えられているのだろうか。


神々の世界は、人間界とは全く違う。


神々は人間のようには生まれて来ない。


神々は何もないところへ、完成された成人がいきなり出現する。(笑)



まさしく観念の崩壊だと思うが、人間や動物のように妊娠・出産というプロセスがないのである。


当然に、親子の情というものはない。


生殖が必要ないので、精を漏らすということもない。


これが神々の愛欲のカルマである。



人間界は、情や性欲に三悪趣のカルマが結びついている。


そのため誤解する者いも多いと思うが、愛欲のカルマは切ってはならない。


修行の順番において、切るべきは三悪趣のカルマが先である。


愛欲のカルマを切って、三悪趣のカルマだけが残ってしまうと、来世は間違いなく三悪趣である。


しかし、愛欲のカルマが残っていれば、来世は修行が出来る世界へ転生する可能性が残る。



それと、ついでに言っておくと、人間界ではほとんどの場合意識堕落天のカルマは無い。


人間界での勝者というものは、基本的には権力や財力を持つものである。


この、権力や財力というものは、単に餓鬼のカルマに過ぎない。


なぜなら、人間界が餓鬼の世界と同じ、貪りの世界であるからである。



意識堕落天は、貪りのない純粋な闘争の世界である。


人間界のように弱い者いじめなどはしない。


経済活動とは、要するに自分よりも弱い立場の者から搾取することで成り立っている。


権力も同様に、自分よりも弱いものを支配したいという欲求に基づいている。


意識堕落天の心にあるのは、ただ強い者への闘争心だけである。


まあ、それはそれで問題があるのだが。(笑)