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うんこ話ばかりしているのもなんなので、たまには教義の話でも。



生きている不思議、死んでいく不思議。


国民的大ヒットアニメの歌の一節であるけれど、まあ、これが一般人の大多数に共通する感覚なのだろうと思う。



ところがオウムの教義はこれとは全く違う。


生きているのは幻影。


そして、死んでいくのもまた幻影。


真実は、唯一、ニルヴァーナのみ。


というものである。



社会常識とはかけ離れた理論的背景を持つ教義を掲げているのがオウム真理教なのだが、不思議なことに事件から20年以上が経つにもかかわらず、その違いを理解できる人間は誰も現れてこない。


どうしてなんだろうなと思うのだが、その主な原因は上祐正大師を始めとするオウム幹部たちが、オウムの教義を正しく説明してこなかった事にあるように思う。


そのため、未だに事件は何故起こったのだろうとか、オウムとはなんだったのかとか、といった極めて初歩的な質問を解決出来ずにいる。



なぜこんな事になってしまったのかというと、オウムの教義を社会常識で説明してしまったということに尽きるだろう。


元々、オウムの教義は、オウムの教義それ自身でしか説明が付かない。


これは、英語は英語のままでしか理解できないというのに似ている。


オウムの教義を社会常識で正しく理解するには、2種類の言語の専門的能力と、2種類の理論の専門的知識の両方が必要になる。


つまり、4つの分野すべてにおいての専門家にしか、説明は不可能ということだ。




そんな能力を持つ人間はこの世にいないだろうなあ。


あ、


いや、一人だけいる!(笑)