まるごとキャベツ⑦ | 法友(とも)へ

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その日の護摩供養は、なんだかいつもと違う雰囲気だった。


社食や学食でよく見かける四角いトレイからはみ出すようにバカでかいキャベツが乗っていた。


大きさの違いがあるので人によって違いが出てくるのだが、丸ごと1個プラス4分の一から1個。


ふざけているとしか言いようの無い事態だった。



誰がどう考えても神々に捧げる供物では有り得ない。


行列の出来るトンカツ屋でも、ここまでのサービスはしてくれないだろう。(笑)


こんな事が起こってしまうのがカルトの怖さということなのだろうと思う。


幹部たちの無思考状態が、末端の人間達に悲劇をもたらしてしまうのだ。



この日の護摩供養はまさに死闘と呼んでよかったと思う。


食べても食べてもなくならない。


内側の固い芯までも、まるごと全部キャベツを生のまま食べたのは、このときが最初で最後だ。



もはや、喉にグルを観想してどうのこうの、などという余裕はどこにも無い。


ただひたすら苦しい時間が続く。


おまけに供養のルールとして、何も道具をつかってはならないということと、供養が終わるまではその場を離れてはならないというのがある。



1時間かけて、ようやく半分くらい片付けることが出来た。


キャベツの芯は固いけど、そんなに不味いものではないなと思ったりもする。


僕は男だからまだいいけれど、お年寄りや身体の小さい女性には骨が折れる作業だったと思う。


周りからかはお婆さんのため息のようなうめき声や、女性のすすり泣きのような声が聞こえてきて、もはや地獄絵図。



それだけならまだよかったんだけど、もうひとつおまけに酷い話しがある。


この日の護摩供養には、幹部たちが参加していなかったのだ。


幹部たちは前日に祭壇に上げられる供物を見ているので、翌日に何が出るのかが分かる。


しかし、サマナたちには分からない。



幹部たちは、自分達が苦しみから逃れるために、サマナには知らせずに自分達だけが逃げたのだ。


そうすることによって、サマナたちの負担が増えることを知った上でのことだ。



これがあらゆるカルト団体の内部で起こっている事なのではないかと思う。


幹部たちの無思考状態によって末端の者達が酷い目に会う。


そして、幹部たちは末端の者達を見捨てて逃げる。


それが人間というものなのだろうなと思う。