色々やりとりをしていて思うのだが、論点がずれたままですな。(笑)
まあ、人と人との言語によるコミュニケーションにおいては、よくあることではあるのだが。
ある単語や文章について、それぞれの人たちがそれぞれの理解をしている。
そして、他人の理解が自分の理解と同じだと勘違いをしている。
勘違いをしたままの人生を送ることが出来れば幸せである。
しかし、勘違いに気付いたとたんに、人生に不幸が訪れる。(笑)
まあ、いいか、そんなことは。
このブログで何度も書いてきたことだが、死ぬのが怖いと言っている人はそのままの意味で、「死ぬ」ことが「怖い」のである。
しかし、ほとんどの人にとってはそうではない。
「死ぬ」ことに関連する何らかの事がらが「嫌である」または「そうあって欲しくない」ということなのだ。
つまりは、大多数の人にとって、死ぬのは怖くないということになる。
しかし、一部の人にとっては、本当に死ぬのが怖いのだ。
死に関連することがどうこうというのではなく、純粋に死ぬことそのものが怖い。
ところが面白いことに、「死ぬのが怖い」人はもちろん「死ぬのが怖い」と言うのだが、死ぬのが怖いわけではなく「死ぬことに関連することが起こって欲しくない」人もまた、なぜか「死ぬのが怖い」と言うのである。
全く違う意味であるにもかかわらず、どういうわけか同じ言葉が使われているのだ。
まあ、世の中にはよくあることなのかもしれない。(笑)
これをオウムの教義ではタマスというのだが、とても曖昧なぼんやりとした状態である。
こんな区別もつかない様なことでは、到底オウムの教義など理解できるはずもない。
なんて悲しいんだ。