オウムではサマディに入ってからの具体的な修行法については説かれていません。
しかし、どうすればいいのかは説かれています。
麻原はそのことについて、シャカムニの例を出して説明しています。
要するにシャカムニが入滅するときに弟子に何と言ったかということですね。
まあ、今のオウムと似たような状況と言えます。
「シャカムニは何と言ったか。己自身を根本とせよと言ったんだね。」
「己自身とは何か。それは真我だ。」
サマディとは真我独存の状態。
全てが消えて真我だけになってしまうのだから、他に頼るものはありません。
シヴァ大神だのグルだのというのは、真我を根本と出来ないということが前提となっています。
つまり、本来のスタート地点ではないところから法則が語られているということです。
麻原もこれを認めた上で、「君達には私しかいないから。」と言ってその後のことを語ってきたのに、いつの間にかその前提がどこかへ行ってしまっているんですよねえ。
まあ、それがタントラヴァジラヤーナというものなんですけどね。