はじめに、今回の記事は市川由紀乃さんには一切関わり合いのないものであることを明記し、確認しておきます。

ブログのタイトルは変えられないので、そのままですが、今回の記事の題名と記事の内容はブログのタイトルとは一切関係のないものであることを、まず最初にお断りさせていただきます。

 

 

 

 

<「創られた「日本の心」神話~「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史~」批評>

 

とあるロックオタクのユーチューブで、タイトルが「邦楽通史・・・」なのに、幕末の黒船来航のアメリカ軍隊の鼓笛隊音楽から始まり、日本人の音感の変遷史を描くという自著の解説動画を挙げていて、その中で演歌は明治時代の演説歌が由来だとか、歴史の浅い商業的に創られた伝統だ、とかいう解説をしており、それだけの情報で前回のような反論を書いたのですが、この演歌についての認識がネット上のいたるところで見掛けられ、その情報の元となった著作が判明したので電子書籍で読んでみました。

その著書のタイトルは「創られた「日本の心」神話~「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史~」というもので、東大卒で複数の大学非常勤講師を務める執筆時36才の研究者としての分岐点に立つ著者が、成果主義の圧力の中で放った起死回生の一打的な著書で、見事に文芸大賞と准教授の座を獲得した、言わば就活用著作とでも言えそうな本です。

イギリスの歴史家エリック・ホブズボウムの「抗議としてのジャズ」(1961年)と「創られた伝統」(1983年共著)を日本のレコード歌謡である「演歌」に当てはめて、一つは「創られた伝統」を暴くという暴露本的関心を煽りつつ、もう一つは、著名な歴史家の理論を日本の社会事象に当てはめて説明することによる学術的功績によって得られる研究者としての評価、の二兎を追った著作であり、その目的を追う余り日本のレコード歌謡史を曲解せざるを得なかった、言わば暴露本風就活用著作的色合いの強い本である言うことも出来ます。

「演歌は日本の心」という欺瞞を暴く、という著作の目的を成立させるため、「演歌」に「伝統を継承している」という著者による意図的な形容を密かに忍び込ませたうえで、自らが意図的に付け加えた「伝統」が実は創られたものであった、という結論を導き出すという論旨を展開するもので、言わば自作自演の「創られた伝統」論を繰り広げます。

「演歌」は昭和40年代の新左翼知識人により「虐げられた民衆の声」という価値付けがなされたが、それと正反対の健全化により一時は隆盛したものの、1990年代には「衰退危惧種」と見做され、ジャンル名としての「演歌」は「昭和歌謡」に包摂されるだろうとし、最後に、理論的な種明かしと「演歌」の誕生と隆盛の通説を仄めかし、「演歌が日本的かどうかは一概には言えない」と結びます。

最後の5%に真実が仄めかされている著作であり、そのタイトルは

<創られた「創られた「日本の心」神話~「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史~」>
とするのが相応しいものと考えられるかも知れません。

 

次に疑問に思う部分は以下のとおりです。

 

この著作の動機について著者は次のように述べている

美空ひばりは「演歌」歌手なのか?と題し、この著作が発表された2010年頃において演歌に対する表現として多く使われていた「演歌は日本(日本人)の心」、例えば、

・1970年代の演歌のヒット曲集CD(2003年)のみのもんたの推薦文にある    「今忘れられ、失った日本人の心を取り戻そう」

・北島三郎のウェブサイト「サブちゃん物語」にある「アメリカにはジャズ、フラン   スにはシャンソン、日本には艶歌(演歌)」

・船村徹が2005年以降行っている靖国神社チャリティコンサートのタイトル「演歌巡礼ー日本の心を歌う」

・五木ひろしの着物ブランドの名称「日本の心」

・2005年NHK教育テレビで「演歌と日本人」等の著者による美空ひばり論の放送

等によって

これらの事例及びこの章全体を見ても「演歌は日本の心」とは言っているが、「伝統を正当に継承している」という表現は見当たらず、それは当時を知っている例示された人々にとっては「演歌」は新しいジャンル名であることをよく知っているからであり、著者のような当時を知らない世代が勝手に誤解しているに過ぎないのである。

ところが、著者は著名なイギリスの歴史家の「創られた伝統」という考え方を日本の「演歌」に当てはめて解釈しようとする、ある種策略的なこの著作目的のために、「演歌は日本の心」に対して「正当に伝承された」という言葉を意図的に滑り込ませて、その継承の正当性のなさを強調する議論に持ち込み、故に「演歌は創られた伝統である」という、言わば自作自演の結論を導き出そうとします。

日本の流行歌は元来、極めて雑種的で異種混淆的で「演歌」はその一部でしかないということを、小林信彦という作家のエッセイにおける

「演歌は日本人の魂の叫び、という文章を見るたびいつからこういう言葉が通用するようになったのか、という疑問を持っていた。<演歌>は1960年代のどこかで発生したとしか言いようがない」

という問いに答えるという形で論じてゆきたい。

昭和30年代までは「日本調歌謡曲」と呼ばれていたがいつの間にか日本の心と結びついた独自の「演歌」というジャンルに含まれるようになった。

昭和30年代までの「日本調歌謡曲」と昭和40年代の音楽ジャンルである「演歌」は、特に「出自」に注目した印象操作的議論を展開し、正当な継承がなく、真正性を持たない雑多な新しい音楽ジャンルとして誕生した歴史の浅い音楽であることを強調し、故に「演歌は創られた伝統である」という結論を強く印象付けようとします。

「演歌」ジャンル以前の日本調のレコード歌謡と「演歌」で用いられる「日本的」の意味付けは異なっており、昭和30年代までの「日本調レコード歌謡」と「演歌」はイコールでない。
昭和30年代までの日本調レコード歌謡との断絶を印象付けるために、執拗に演歌歌手の「出自」の正当性のなさを強調させるため、不必要で辛辣な言葉を多用して「演歌」の真正性に対する疑問を印象付けて描き出そうとします。

・芸者歌手
日本調歌手イコール芸者歌手はおちょぼ口で細かい「ちりめんビブラート」を用いてかぼそく歌うもので、現在の演歌で強調されるような「暗さ」や「貧しさ」や「みじめさ」はなく、大口を開いて浪曲のように唸るように歌い方はしないので継承してはいない、

演歌歌手の歌唱は曲によっても歌手によっても様々であり、その大口を開いて歌う演歌歌手が誰なのかも明示せず、「大口を開いて浪曲のように唸るように」とこき下ろす印象操作としての表現。
股旅物
・「股旅物は伝統とは言えない」

「演歌は日本の心」としか言っておらず、ここでも意図的に「伝統」という言葉を意図的に付け加え、印象で議論を進めようとしている。

映画の主題歌であるから伝統とは言えない、ということは、映画の主題曲は邦楽ではないから伝統ではない、ということだろうと思われるが、伝統の定義付けもしていないため、音楽としての伝統なのか、芸能としての伝統なのか、映画という文化的技術のことを言っているのかが不明で、ただ、伝統の断絶を強調しているだけである。

・「洋装の直立不動で西洋的な歌唱法の東海林太郎」

進歩的な西洋風を演出するためであり、劣っていると見做されている和風の印象を避けなければならなかったのでは?

・「声楽家もどき」としてのレコード歌手
・「みな音大出」

音大出であれば、本来「歌曲」を歌うべきであり、当時であれば滝廉太郎、山田耕作等同じ音大出の作品を歌うべきなのに、何故、古賀メロディなのか?

それとも「影を慕いて」は「歌曲」として作曲されたものなのか?であれば、音大出でない古賀政男の歌曲の作曲者としての出自はどうなるのか?

「影を慕いて」が歌謡曲だと言うのであれば、今度は音大出の藤山一郎の歌謡曲の出自にどんな正当性があるというのか?

併せて、音大出の淡谷のり子にブルースを歌う出自の正当性はあるのか?

・「「こぶし」や「唸り」は昭和20年代には見当たらない。」

劣っているものである日本的な「こぶし」や「唸り」を封印しなければならなかった文明開化以降の日本人の抱えていた西洋化圧力の大きさが伺える、とは思えないのだろうか?

・昭和30年代の「日本調」

・「長山洋子や藤あや子の歌唱は特に民謡を想起させるものではなく」

民謡ではなく演歌を歌っているのであり、民謡歌手が演歌歌手になるのは歌唱法の親和性を示す事柄である。

・「民謡歌手を出自とする演歌歌手は少ない。」

民謡歌手が民謡を歌う場合は出自が問われるかも知れないが、演歌のジャンルに民謡が含まれている訳でもない。

そもそも、「演歌は日本の心」としか言ってなくて、「伝統を継承している」という形容は、著者が「創られた伝統としての演歌」を暴露する目的の自作自演を演じるために意図的に行った作為的な記述であり、ここでも出自の希薄さを強調し、もって、「演歌」の伝統の継承のなさを露わにするという印象操作で論理を組み立てようとしている。

・「島倉千代子の「泣き節」は江戸俗曲に近く、正統な「日本調」を継承しており」

正統な「日本調」を継承している、とする根拠はどこにあるのだろうか?

島倉千代子の出自を問えば、江戸俗曲の師匠に弟子入りしたような形跡もなく、日本音楽高等学校卒であるが、同校は過去に邦楽を教えた形跡もなく、卒業生には、島倉千代子の他、弘田三枝子、工藤静香、平山ミキ、山室英美子(トワ・エ・モア)という洋楽系の歌手が並びます。

正統な出自もないのに「正統な「日本調」を継承しており」とは、何を根拠に言っているのでしょうか?

著者の「正当な感覚」なのでしょうか?

その「正当な感覚」の出自は何なのでしょうか?

著者の感覚の「正当性」を客観的に証明する根拠を示すべきでは?

・「「演歌」の「やさぐれた夜の女の怨念」とは対照的である。」

一体、どの女性演歌歌手のことを言っているのか、例示もせずに総括的かつ断定的な表現の仕方、これも印象操作でしょう。

・田舎調
・「右翼団体「日本会議」のメンバーで保守主義者である船村徹」

船村徹を形容するに当たってこの表現は必要なのだろうか?

勿論、私はそうではなく、嫌いな方ですが、船村徹が保守主義者であることが、この著作の論旨に何か意味を持ことなのでしょうか?

・「戦後に築いたアメリカ由来のモダンな都市プチ・ブルジョア的レコード歌謡」

「鬼畜米英」として敵視した国に完膚無きまで叩きのめされた敗戦直後の日本人が、進駐軍の支配下で唯一許された鬼畜米英に迎合した西洋風音楽を、「アメリカ由来のモダンな都市プチ・ブルジョア的レコード歌謡」と形容するのは、敗戦後の大衆への共感の希薄さを感じずにはいられません。

私はてっきり戦前の曲だと思っていたのですが、音楽的には素晴らしい日本歌謡の傑作だとは思いつつも、やみ市の上を流れる「東京ブギウギ」を当時の日本人が手放しで喜んでいたとは思えないのですが・・・。

・「明るくてモダンな側面が見え難くなり、非常に残念だ。」

それが「柔」や「悲しい酒」より魅力的で大衆に受け入れられるのであれば、「船村に擦り寄る」必要もなかった訳で、「悲しい」と言う表現で印象操作なんかしなくていいから、それが受け入れなかった大衆側の理由を探るべきでは?

・浪曲調
・「浪曲に出自を持たない畠山みどり」

では浪曲調歌謡曲を歌う二葉百合子や三波春夫、村田英雄の歌謡曲の方の出自は問わないのか?その場合「歌謡曲の出自」とは何になるのか?そしてその出自が正当性を持つことは何をもって証明できるのか?

そもそも「出自」の定義もしていない。

・「ハワイアンバンド出身の作曲家市川昭介」

浪曲調歌謡曲は浪曲師の出自を持つ作曲家でないと伝承の正当性はないということか?

三波春夫の「大利根月夜」、或いは「俵星玄蕃」などの歌謡浪曲は全て、法政大学出身の長津義司の作曲であり、この人には浪曲師の経験もなく、淡谷のり子の「君忘れじのブルース」も作曲している。

村田英雄もデビュー曲「無法松の一生/度胸千両」や「人生劇場」は古賀政男 、「一本刀土俵入り」は遠藤実、「王将」船村徹、「夫婦春秋」市川昭介 ・・・。

そもそも浪曲に出自を持つ作曲家なんて今も昔もこの世に存在しない。

・「ハワイアンバンド出身」「制作サイドはコミック・ソングと捉えていた」

この記述は論旨に必要なのか?

「演歌」の雑多性と伝統の継承のなさを印象付けるための表現であり、著者の苛立ちさえ感じられるし、著者が勝手に忍び込ませた「伝統の継承」の欠落を印象操作で語ろうとする、この著作が如何に著名な学説の「創られた伝統」を日本の「演歌」に当てはめるのに論理ではなく、印象操作に頼らざるを得なかったかが感じられます。

・「「異物」であり、パロディやコミックとしての「浪曲」は植木等浪曲風コミックソングにも伺えるもの」

「演歌」を見下す辛辣な表現であり、必要のない記述である。

・「浪曲師上がりの漫才師」

ことさら見下す言い方であり、ここも必要のない記述である。

・「戦後のアメリカ音楽受容の到達点でもある歌手の歌唱技法に由来」

「演歌」の異種雑多性を印象付けようとする必要のない皮肉な表現。

・「浪曲に出自を持たない」「浪曲のパロディ」

「演歌」を蔑む辛辣な表現であり、「演歌」の雑多性と伝統の継承の無さを強調しようとする過剰な表現である。

・森進一の「影を慕いて」
この時代のレコード歌謡が一種の文化遺産としての「ナツメロ」の真正性に連なろうとする戦略である。
昭和40年代に再浮上した新しい「演歌」という言葉に「過去から連綿と続く日本的な歌謡伝統」という意味付けの指標となった。

・「真正性に連なろうとする戦略」「「過去から連綿と続く日本的な歌謡伝統」という意味付け」

音大出の藤山一郎が西洋歌曲でもない「影を慕いて」を歌うことの真正性とは何か?

背広を着てクルーナー唱法で「西洋歌曲」を歌うことでしか真正性は在りえないのでは?

非西洋的旋律の「影を慕いて」は、本来であれば、着物姿でコブシの効いた日本的歌唱法で歌うことにこそ真正性があるのであり、文明開化以降の西洋至上主義の無意識の圧力の中で藤山一郎はそれを出来なかっただけであり、森進一の歌唱法によって初めてこの曲の真正な姿が現れたのだ。

「真正性」を決めるのはそれを受け入れる大衆であり、森進一版の大ヒットがそれを証明している。

・古いくさい歌としての「演歌」
岩波新書「演歌の明治大正史」著者に対する1964年のインタビュー記事に「来年は演歌ブーム?」という記載がある。
・1965年の艶歌ブーム
ニッポン放送のディレクターの「艶歌漫歩」で「流行歌の底に流れるものが演歌であり、その代表が艶歌である。」として「艶歌」を「日本的」「伝統的」な性格を持つレコード歌謡と規定し、肯定的に評価している最初の事例です。

1965年前後にはTV・レコード業界では既にジャンル名として「演歌」が使われており、「日本的」「伝統的」な性格を持つレコード歌謡と規定されていた。

重要なのは<性格を持つ>という表現で、出自による伝承の正当性などは問われていないことであり、著者だけが意図的に拘り、印象付けようとしているだけである。
「今、江戸小唄と断絶した形態で発達してきた歌謡曲が新しい飛躍をしようとしている」として「艶歌」がナショナルな水準で「僕達の遺産」として想定されていることが伺える。
この時点では既に伝承の断絶を前提としており、国民的文化としても肯定されている。

「演歌調」が「古い歌謡調」と同一視され、東海林太郎のLP盤の人気と連続するものとされていることは注目に値する。

このとき既に「演歌」というジャンルは東海林太郎等の古い曲まで遡って包摂するジャンルとして使われており、その規定の仕方が大衆に受け入れられていたのが分かり、現代において新たに付け加えられたものではない、ということも分かる。

GSブームによって、それと対比する形で旧来のレコード歌謡をひっくるめて「演歌」という語で支持する用法が生まれてくるが、それはジャンルの規則が社会的に承認されることが必要です。

大衆に受け入れられていたことこそ、「社会的な承認」であろう。

それは五木寛之の「艶歌」論によるものであり、「演歌=日本の心」という「演歌ナショナリズム」の原型となるが、それは保守的・反動的な伝統礼賛とは全く異なる文脈で生み出され受容されたものでした。
五木寛之個人が何故にどんな権利でどのような正当性をもって、その「社会的承認」なるものを与えられ得るというのだろうか?

そのことについての説明が一切ない。

その後60年安保を経て、「新左翼」が台頭し、既成左翼への反感として彼らが低俗、退廃と批判して啓蒙の対象として来た大衆と大衆文化を土着的、民衆的、情念的として肯定し、逆にそこに下降して真の民衆の文化を獲得しようとする議論が生まれ、流行歌は被抑圧者の音楽表現とみなされ、「黒人ジャズ」や「ブルース」が参照され、例えば新左翼の寺山修二は「歌謡曲」は「孤絶したアウトロー」が歌うもの」と規定し、既存左翼の連帯を価値とする「うたごえ運動」に対峙する。

・「そこに下降して」

「高い」場所から「低い」所へ下降して、と当時の自称知識人のエリートとしての驕り高ぶった自意識が見て取れる。

・「寺山修二は「歌謡曲」は「孤絶したアウトロー」が歌うもの」と規定し」

寺山修二に、大衆の「歌謡曲」を「規定」するどんな権限、資格、正当性があるのか?

この「孤絶」を歌謡の本質とみなす「さびしさ」や「暗さ」或いは「北方志向」が「演歌」のジャンル形成に大きな影響力を持った。

その影響力を示す具体例を挙げて欲しい。

例えば星野哲郎が寺山の考えに賛同して歌詞を書いた、とかの記録はあるのか?

また、新左翼の竹中労は美空ひばりを「占領下のアメリカナイズという植民地化の中で民族的な音楽を守った」と称賛し、レコード歌謡を低俗、封建的と非難してきた既存左翼に対抗した。
ここまでの詳細な記述は全体を通して、既存左翼と新左翼とのセクト間​​​​闘争史みたい記述になっています。

奴隷として連れてこられた黒人の「ジャズ」や「ブルース」は文字通り被抑圧者の音楽表現ではあるが、演歌を歌った演歌歌手や、或いはそのレコードを買った日本の大衆のどこが「被抑圧者」なのか?

同じ肌の色したニッポン人であり、当時は「一億総中流」という言葉が声高に叫ばれていた時代であり、「被抑圧者」なる表現の時代錯誤の甚だしさにも程があるだろう。

当時の自称知識人の間のセクト間闘争に、世界的な潮流であったニューレフトのアメリカにおける黒人音楽の価値の逆転(抗議としてのジャズ)を模倣しただけで、それらしい「演歌」に黒人音楽を重ねただけに過ぎない。

この小説において「艶歌」の音楽的な本質である「こぶし」や「唸り」は民衆的な真正性の証とされ、特に「唸り」は「被抑圧者の声」として観念化され、「浪曲調」と「艶歌」が重ねられた。

何度も言いますが、都はるみは被抑圧者ではなく、誰も彼女の歌を「被抑圧者の声」などとして聴いてはいない。

また、流しの歌う歌を「押さえつけられ、差別され、踏みつけられている人間としての未組織プロレタリアートの怨念悲傷」としてその「暗さ」を審美化することにより明治からの連続性も創出した。

自称知識人なる新左翼の妄想に過ぎない。

その後1969年にデビューした藤圭子にその理想像を見出し、激烈な称賛文を書き、藤圭子の売り出しにも一役買い、「演歌の星」のニックネームの彼女は新左翼のアイドルともみなされた。

「艶歌の星」ではないの?

「演歌」の意味付けに真正な社会的承認を与えたはずの五木寛之の小説のタイトルは、確か「艶歌」だったのでは?

その意味付けを体現化したとして激賞した藤圭子のニックネームが「艶歌」ではなく「演歌」の星、だったとは、一体、当時の新左翼の価値の転換と意味付けが社会に対してどれほどの影響力を持っていたのか?極めて怪しい、と思わざるを得ない事実である。

藤圭子の生い立ちを宣伝の材料に使った方法は、後の山口百恵の場合もその実人生における複雑な生い立ちを連想させる「赤い」シリーズなどによって虚実を交差させる巧みに演出される「暗さ」や「不幸」を最大の魅力にしていた。

ここは見逃すことは出来ない。

百恵ちゃんの名誉のためにも言うが、その複雑な生い立ちは引退後に出版された「蒼い時」によって初めて語られたことであり、現役時代には決して「巧みに演出される「暗さ」や「不幸」を最大の魅力」になどはしていない。

自分が生まれてもいない時のことを分かったようにに言うべきではないでしょう。

これはこの著作全体に対する言葉でもある。

・1971年の「平凡」新年号に「今年は演歌が<日本の歌>として歌われ、今まで以上に<新しい演歌の第一歩>を踏み出すものと思われます」という記載があり、ここで「演歌」は「日本一」「日本の歌」という文句で新しいながら優れて「日本的」なものであるとされています。

「艶歌」のジャンル化の時点では「新しい」ことと「日本的」であることは矛盾なく両立していて、というより、「日本的」とみなされるものに回帰してゆくことこそが、当時の「新しい」文化的モードであったと言うべきでしょうか。

「言うべきでしょうか。」ではなく、そうだったのであって、そのことを何故認めようとしないのでしょうか?

「平凡」の記事のようにこのころには既に「演歌」は「日本的なものに回帰してゆくもの」として、自称知識人などではなく大衆によって「社会的承認」が確立されていたということであり、この著書が執筆されている時点で語られていた「演歌は日本の心」とはこのことを意味しているのです。

ここでこのことを記述しておきながら、それを無視するかのように唐突に著者は「演歌」は新左翼知識人達によって価値と意味を与えられた「被抑圧者の叫び」にこそ真正性が与えられると蒸し返し、断定します。

それは、著名な歴史家の「抗議としてのジャズ」と「創られた伝統」の理論を日本の「演歌」に当てはめようとする、この著作の当初からの目的を達成するためであり、論理的妥当性は必要ないから、だったのではないでしょうか?

「演歌」が「日本的」なものとして真正性を与えられるのは、旅股やくざや遊女、チンピラ、ホステスという公序良俗から危険視されるアウトローに民衆性が存し、そういう人々こそが「真正な下層プロレタリアート」であり、西洋化=近代化である経済成長に毒されない「真正な日本人」なのだという反体制的・反市民社会的思想を背景にして初めて、「演歌は日本の心」といった物言いが出来た、ということだ。

前述の当時のTV・レコード業界人や「平凡」の記事はなんだったのか?

突然また新左翼の妄想を持ち出して来て、根拠もなくそれが正しいと断言する。

論理の飛躍どころか、断絶とも言うべきもので、この著作の論理性の希薄さを疑ってしまう記述です。

それは仕方ないことで、最初から結論は決めていたからなのでしょう。

論理なんかどうでもよかったかも。

敗戦後、既成左翼の進歩的な思考によって否定されていた「アウトロー」「貧しさ」「不幸」にこそ民衆的な真正性があるとする60年安保後の反体制思潮を背景に、寺山修司や五木寛之などの文化人がレコード歌謡に「流し」や「夜の蝶」というアウトローとの連続性を見出し、そこに「下層」「怨念」「漂白」「阻害」等の意味づけをすることによって、現在「演歌」と呼ばれる音楽ジャンルが誕生し、「抑圧された日本の庶民の怨念」の反映という意味において「日本の心」となり得たのだ。

ニューレフトによるアメリカの「抗議としてのジャズ」をただパクって当てはめただけなので、実態との乖離振りは滑稽なほどですが、新左翼の自称知識人達は、そんなことは御構い無しで、最新の思想を知っている、語っている自分に、ただただ酔い痴れていたかったのでしょう。

「任侠映画」や「劇画」等も60年安保或いは東京オリンピック後に経済成長から取り残され、抑圧されたアウトロー像が理想化され、そのような文化的地殻変動の中で「任侠映画」「劇画」等、そして「演歌」が生まれた。

再度言いますが、当時は「一億総中流」時代で、誰も取り残されたり、抑圧されたりはしていません。

平成からの「失われた30年」によって貧富の差が拡大した今こそが、新左翼の自称知識人達が意味・価値付けた、「取り残され、抑圧された人々」が「非正規」という形で存在しているのではないでしょうか?

新左翼の理論によれば、今こそ「抗議としての演歌」が隆盛していなければならないはずで、そんな事実は見当たりません。

如何に当時の新左翼自称知識人の言説が空論・妄想であったか、ということが証明されているのではないでしょうか?

1979年以降の「おもいで酒」「夢追い酒」「氷雨」「二人酒」「北酒場」「さざんかの宿」「大阪しぐれ」などは歌詞も旋律も似ていて凡庸です。

あんたに言われたくないw

40年の長きに渡り多くの日本人の延べ何千万という耳で名曲中の名曲として聴かれ、今も歌い継がれるこれらの曲を「凡庸」としか聞こえないこの人の感性が、多くの正常な日本人の感性と極端に異なっていることを示している、とも考えられそうです。
例えば、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」以降の曲は「凡庸」だ、と語るクラシック音楽学者がいたとしたら、その人のクラシック音楽についての見解を信用することが出来るでしょうか?
これらの名曲を「凡庸」としか聴こえない著者の感性が信頼できないことは、この著書の主張が信頼できないことと直接繋がります。
音という感覚的なものを感性で捉えることで成立する分野に関する主張であれば、それは尚更のことでしょう。

スナックなどのカラオケで歌う演歌はカラオケボックスの誕生とともに若者のJポップにに占領された。

70年代後半には衰退が意識されていた演歌はスナックのカラオケで一時延命したが、若者のカラオケボックスでの「Jポップ」に駆逐された。

90年代の平成に入ってからは「演歌」のジャンルは「衰退危惧種」として扱われるようになった。

曲がりなりにも「演歌」が成功を収めていたのは70年頃から80年代半ばのわずか十数年に過ぎない。

「一時延命」「駆逐された」「衰退危惧種」「曲がりなりにも」

辛辣のオンパレードですが、このような表現は必要なのでしょうか?

この著作を通して、目的もですが、著者の「演歌は日本の心」という物言いに対する苛立ち的なものを感じざるを得ませんでしたが、その由来について考えて見る必要もあるかも知れません。

過去のレコード歌謡が「昭和歌謡」と呼ばれるようになったときには、「演歌」は包摂されてしまい、カラオケ以降に規格化された「演歌」は高齢者向けのお稽古事と密着した芸事として延命することになるということです。

「昭和歌謡ベストテン」等はいい例でしょう。
ただ、その番組でベスト10に選ばれた曲は、演歌歌手がカヴァーとして歌唱する形で発表されます。
昭和歌謡をJポップの歌手は当然歌いませんし、昭和歌謡の真正なる後継者は数えるほどなので、まだたくさんいる若い新人演歌歌手や、まだまだ現役の大御所演歌歌手がカヴァーとして歌っている、というのがこの著書が発行されてから15年後の現状です。
70年代から80年代にかけての経済大国としての自負で、国民文化として称揚された「演歌」はバブル崩壊後その自負も跡形もなく消え失せており、当面は「演歌」の隆盛は起こりえないでしょう。

ここがこの著者の、執筆時点における苛立ちを解明する部分ではないのかと思います。
この著書が発行された2010年は失われた30年の20年目で、バブル崩壊後のデフレ状態が深刻で、新自由主義経済による成果主義が社会に浸透し、2003年からは国立大学も法人化され、交付金も急激な右肩下がりに減少していた時期であり、複数の大学の非常勤講師を掛け持ちする、不安定な雇用形態の高齢高学歴大学講師の記事などが報道された時代でした。

そんな状況の中で終身雇用制に守られながら経済成長を果たし、世界2位の位置まで登り詰めて繁栄を謳歌していた時代を称える人々に対する、著者や同年代の人々の感情が如何なるものかは、なかなか想像し難いものがあります。

・「経済大国としての自負で、国民文化として称揚された「演歌」」

今まで全く触れてこなかった「経済大国の自負として称揚された演歌」という表現をを残り5%のここで唐突に持ち込ん来ます!

それまで、この本の95%を費やして語られた、新左翼知識人による価値の転換や意味付けの過程に係る詳細な記述と、辛辣な表現による印象操作を用いて、その出自の継承の不備を指摘することにより証明しようとした「創られた伝統としての演歌」についての記述は何だったのか?と思わざるを得ません。

演歌に変わる日本的な叙情や感傷はjポップ、或いは音楽以外にも溢れており、ジャンルとしての「演歌」が消失したとしてもその日本的な叙情や感傷は存続してゆくでしょう。

「日本的な叙情や感傷」の説明もせずに断定的な結論を引き出す、これも印象操作の一種であるが、その「日本的な叙情や感傷」については、今後の「演歌」の可能性を考えるためには重要な要素だと思われるので、改めて考える必要もあることでしょう。

1968年を象徴とするこの時期に日本の新左翼知識人がアメリカ黒人音楽のジャズやブルースをモデルにして「艶歌」概念を立ち上げたことを述べてきたが、それは本書が歴史家のエリック・ホブズボウムが「抗議とジャズ」(1961年)や「創られた伝統」(1994年)で示した視点による方法論に立っている。

ここがこの著書の種明かしの部分になります。

エリック・ホブズボウムの「抗議とジャズ」(1961年)や「創られた伝統」(1983年共著)という半世紀前の有名な理論を踏襲したことをここで披露するのですが、現在でも、西洋の理論を日本の現象に適用させ説明することが、学術的な功績として評価され、文芸大賞や大学准教授の採用に結び付くような、日本の学術界のレベルに驚かされます。

エリック・ホブズボウムの「抗議とジャズ」を無理に「演歌」に当てはめようとした1960年代の日本の新左翼の主張が、滑稽な程の時代錯誤であって、それが大衆の支持を得た形跡さえ確認しないまま、「社会的真正性を与えた」と強弁するのが、著名な歴史家の理論を踏襲しているからだということなのかも知れませんが、そのことの妥当性については少しも触れられていません。

他方、1920から30年代の南北アメリカで下層の大衆音楽がメディアの流通を通じて初めは蔑視され、その後「国民的ステータス」を獲得し、例えば、演歌概念の形成に直接影響を与えた「アメリカン・ルーツ・ミュージック」(ブルースやジャズ)、ブラジルのサンバ、キュウバのソン、アルゼンチンタンゴ、があり、フランスのシャンソン、イタリアのカンツォーネ、ポルトガルのファドが下層の下品なものから国民的なステータスを獲得していった過程も同様であるかも知れない。

更にここに至っては、日本の演歌の誕生に係る通説らしきものさえ、唐突に言い出します。

たぶん、これが正解で、著者もそう理解しているだろうに、最後まで触れず、ひたすら新左翼の時代錯誤の空論と「演歌」の伝承の不備に字数を割いたのは、この著作が如何に作為的な書物であるかを、物語っているような気がします。

なるほど「演歌」は「日本独特の国民的」音楽ジャンルかも知れないが、下層の逸脱的な表現を西洋近代化へ対抗させて「国民文化」を立ち上げるというプロジェクト自体は西洋中心世界の周縁に見られることとかなりの共通点を見出せ、そのような観点での比較検討が今後の課題となるだろう。

遂に昭和40年代における「演歌」という音楽ジャンルの誕生とその隆盛についての真実が、ここに至って初めて明らかにされます。

一体、今まで膨大な字数を費やしてきたこの本の95%は何だったんでしょう?

ここで言っていることは、第二次世界大戦終了後に全世界的に起こった、それぞれの国の「奇跡」と称された大規模で急激な経済復興を追い風とした、それぞれの国の「国民文化」の誕生と隆盛のことを言っているんだろうと思うが、日本における「演歌」の誕生とその隆盛は、それに含まれて理解されるべき事柄である、という、たぶん「演歌」についての通説を、最後の1ページ前で明らかにするということは、一体どういうことなのだろうか?

この著作の初めからの95%は、著名な西洋の学説を用いて、日本の歴史的な事柄を説明するという学術的功績としての評価と、更には、著者及び同世代が直面しているデフレ真っ最中の成果主義による非正規として生きざるを得ない、まさに「被抑圧者の叫び」的苛立ちに根差した「伝統」という権威への対抗的意識の現れである「創られた伝統の暴露」欲求に応えようとした記述であった、ということであり、実は真の学術的な理解は知っているということを、学術界向けに最後に目立たなく、かつ、語尾の「今後の課題となるだろう」という推測的表現で、書き記しておいたものだと思われます。

サブちゃんの「・・・日本には演歌がある」という言葉は、ある特定の社会集団と特定の文化的表現がいつ、どのように結びつくのか、という問題で考えられるべきものです。

著者は不思議なことに北島三郎には辛辣な表現を控えています。

北島三郎だけが好きで他の演歌歌手は毛嫌いする、というこの感性は全く理解出来ない、風変わりな嗜好に思えます。

たぶん、この方は感覚的分野における感性にあまり自信がなく、それを旺盛な知識力で補おう、或いは覆い隠そうとする人なのかも知れず、そういう負の欲望を持って適性の無い感覚分野である芸術の世界に関わろうとする人々が、この世にはある程度の数で存在していますが、その最たるものが各芸術分野における評論家という職業に就き、評論という言説で芸術家を見下すことにより、自己肯定を得ようとする、非常に厄介な人々が存在しますが、そういう可能性も否定できないのかも知れません。

「演歌」は「日本の心」か?の問いには単純な肯定・否定で答えられないが、それが簡単でないことが理解されれば本書の目論見はある程度成功したと言える。

これが358ページに及ぶこの著書の結論として最後の二行に記された言葉です。

・・・。

「演歌」における「日本の心」については新左翼知識人が価値を与え、意味付けたところの、時代錯誤にも程がある「被抑圧者の叫び」こそが、知識人が行ったという、ただ一点のみを根拠として社会的な真正性を獲得したとして、「日本の心」=「被抑圧者の叫び」と断言しており、一方で、当時の芸能関係者の言葉や「平凡」の記事に見られる「過去の歌謡曲まで遡って包摂される日本的なものに回帰する歌謡曲」という意味付けについては「出自」の正当性を持たないという理由で明らかに否定しており、前者を肯定し後者を否定しているのは明白です。
「単純な肯定・否定で答えられない」という結論はどのようにして導き出されたのか?
なぜ、この結論に至ったのかの説明が欠落しています。
確かに新左翼知識人によって価値付けと意味付けはなされてはいるが、一方で業界関係者や「平凡」の記事、レコード会社による宣伝などによる価値付けと意味付けも並行してなされているのは事実であり、問題はそのどちらが真正な社会的承認を得たか、ということである。
それは、新左翼知識人の思想や小説「艶歌」と、もう一方の業界人の発言や「平凡」の記事、或いはレコード会社の広告が、それぞれどれほどの人の目に触れてどれほどの賛同を得たのか、ということでしか判定出来ないのではないのでしょうか?
新左翼知識人の思想や小説「艶歌」が、「平凡」の記事やレコード会社の広告を上回って読まれたとは考え難く、ましてや寺山修司の言葉や五木寛之の小説に感銘を受けて「演歌」のレコードを手に取った者は何人いるのだろうか?日本国中で!
最後には、どちらとも言えないという曖昧な表現の結論で閉じ、この著書の意図的な目的が伺われるような印象を受けました。
<終了>

 

<読後>

著者世代が「演歌」を「創られた伝統」と見做すのは、一つはインターネットの普及により、情報を得るメディアが分断されている、ということが挙げられると思います。

昭和40年代を知る人々の情報も併せて取り入れていれば、このような誤解は生じなかったと思われるのと同時に、もう一つは「演歌」に限らず、あらゆるものに対してその伝統の欺瞞を暴く「創られた伝統」ブームの存在が挙げられます。

「伝統」と呼ばれる既成の権威の欺瞞を暴くのが一種のブーム、社会的欲求のようになりつつあります。

例えばそれは、兵庫県知事選や東京都知事選に見られたSNSの影響力により予想を覆すような選挙結果を招く事態まで発展させる事例なども同様な意味があるのだと思いますが、これらは全て既存の権威を否定することのみが正義だという、極めてシンプルな正義感で自己肯定しようとする原理に基づくものであり、そこには破壊しか生まれません。

ゼロからの創造はあり得ず、伝統の再創造こそが真の創造なのではないでしょうか?

40年代の「演歌」はその意味で、浪曲や民謡、詩吟等、あらゆる日本の伝統を正当に継承している様々な日本的音楽を異種混淆的に取り入れ、再創造された、新しい芸術としての音楽分野だったとは言えないでしょうか?

芸術は全て出自の定まらない異種混淆的なものとして再創造されるものであります。

ゴッホやモネにおける浮世絵、ピカソにおけるアフリカ彫刻、ビートルズのロック・・・正当な出自はあるのでしょうか?

 

<その後>

著者は、勿論偶然だとは思いますが、雇用の安定した教授に昇進した2022年に、全9回の「北島三郎論」なるものをインターネット上に上程して、演歌を再評価する姿勢を見せています。

その第1回で

「北島三郎的なもの」として再想像、もっといえば再創造する、ということだ。

北島三郎を論じることを通じて、私がかつて明らかにした演歌ジャンルの枠組を、かなり根底的に修正し、あるいは転覆させようという大それた野望を持っている。

1970年代以降の演歌ジャンルにおいて強い規範、または呪縛となってきた「五木寛之=藤圭子的な演歌(艶歌、怨歌)像」に対するオルタナティヴ(代案)として提示する、というのが本連載の私の目論見である。

として、本著作の主張を転覆、つまり変えることを宣言しています。

 

私はこれは悔恨の論文だと思っていますが、是非その優秀な頭脳と、左翼だか右翼だか知りませんが、その知識人としての絶大な影響力を駆使して、短絡的な理解によって独り歩きしてしまった「創られた伝統である演歌」という誤解を払拭し、そのうえで「演歌」の魅力とその未来の可能性を是非ともお示しいただきたいと、切にお願いしたいものです。


これから「演歌」の強力な応援団長となりそうなこの方の活躍をみんなで応援しましょう。