望む上で
一番大切なことって純度の高さだ。
ただただ、これ、いいな!と思えることほど
望みの純度は高い。
例えば、
小さい子どもが、
救急車を見てカッコいいと感動し、
「救急車になりたい!」と言うことがあるが、これこそまさに純度の高い望みだ。
そもそも救急車になれるのか
どうやったら救急車になれるのか
そんなことは全然わからないけど、
子どもは感動とともに自由に素直に望む。
一方で、
こんな望みでないと嫌われてしまう、
叶わないと人から認められない、
すごいと思われない
注目を集められない、
そんな恐れが入れば入るほど
望みは濁っていく。
時々、
お金を稼ぎたいというのは、
望みを叶える手段であって、
それは望みそのものではない。
望むことの目的は、
世間や人の目、概念や常識を超えた
自分にはこんな思いがあったのだという望みを自分が観ることだ。
それが、
どうやって叶えようかと
叶える方法を考え出した途端に
望むことの目的は叶えることに変わる。
望むなりすぐに叶え方を考えると
苦しくなったり、
嫌な気分になったり、
できないという思考が湧いてきたりする。
それは、
望むことそのものに対して
嫌悪感を抱かせるだけでなく、
自分と似たような望みを叶えている人への
羨望になる。
それはやがて
私は叶えられなかったのに
あの人は叶えやがってという
不足や欠乏からくる嫉妬になる。
その不足感や欠乏感は
注目されたい、
すごい人だと思われたい、
他者から認められたいという
強烈な承認欲求に変わる。
この欲求は麻薬で、
自分も望みが叶ったら
孤独感や寂しさ、無力感を感じさせる
不足感や欠乏感という穴を埋められるという
幻覚を見せる。
そうして、
望みを叶えようと執着しだし
ますます強くなる承認欲求を満たそうと
がむしゃらに大量に行動する。
そんな状態になったとき
自分の望みを思い出すことはできるのだろうか。
自分の望みを叶えられるような健やかな心身でいるのだろうか。
望みを叶える方法は、
人それぞれに合うものがある。
自分の感覚や感情が
このやり方!いいな!と感じるものの
自分が一番心が動いたエッセンスや視点を取り入れていけば、
自分だけの叶い方ができあがるのだ。
それこそが、
自分の人生を創造していくということだ。
そもそも、
望むということは
自分は何を本当に望んでいるか観察し、
気づき、受け止めるということだ。
その思いを受け止めるだけで、
自己受容という深い満足が起こる。
だから、
なんのてらいもなしに、
救急車になりたいと言った小さな子どもの顔は、満足感と幸福感で満ちているだろう。
その子が将来、
救急車になるかどうかはわからないが、
自分だけの望みの叶え方に気づき、
救急車のような人を助ける仕事に就いたり、
活動をしたりして望みを叶えるだろう。
私の小学校からの友人がそうだったように。
人生はオモロ〜!