やりたいことをやれる自分になりたい
やりたいことをやれる人生を生きたい
そう強く思い、
やりたいことをできるようになってきたと思っていた。

牛歩のように少しずつだけど、
やりたいことに対してはやりたいと言い、
やりたくないことに対してはやりたくありませんと言えるようになってきた。

少しでも興味を持てばやってみて
それが私のやりたいことなのかどうか
どんな感情を抱くのか丁寧に観てきた。


10年かけて会社でそのチャレンジをし、
次のステージでチャレンジしたいと思い、
会社を辞めた。

これでますます思う存分やりたいことができる。

 

だから、

会社を辞めたらやりたいと思ったことも
会社を辞めて後にやりたいと思ったこともやってきた。


それなのに、
あまり満足感がない。


なぜだろう。
やりたいと感じたことをやっているのに
想像以上に心が満たされない。

なぜだろう。
分からなくて苦しくなる。
そうしたら、
やりたいことさえも分からなくなった。

そんなときに限って
「やりたいことって何?」と聞かれる。

質問されるや否や、
私は答えるよりも先に
頭がぎゅっと締め付けられるような感覚がし、
身体がこわばる。

自分でもどうしてこんな反応が出るのか
全然わからない。

やりたいことができている今に
幸せを感じているのに、
なぜ恐怖を感じているような身体反応が出るのだろう。


これまでに

この感覚と似たような感覚になったことがある。

今日私は思い出した。

3人姉妹の長女である私は
なぜか小さな頃から私だけはやりたいことをやらせてもらえなかった。
それでも親に食い下がり、

どうにかやりたいことをやれたとしても、

親から嫌味を言われたり、

明らかに嫌そうな態度をされた。

お絵描き教室もダンスもそろばんも工作教室も料理もバレーボールも
何の役に立つんだと拒絶され、ダメだと言われたり、送り迎えに非協力的だった。


その度に身体は硬直し、

頭は締め付けられるような感覚になる。
 

それなのに
なぜかピアノと習字、バスケットボールは習うことが許された。
どれも大して興味はなかったが、

それでも少しだけやりたいなと思ったピアノだけは習った。

これが私のやりたいことなんだと思わないと、

心がつらくてやっていたから

楽しいというよりも苦痛だった。



私にとって

やりたいことはやるのは、
針の穴に糸を通すような感じだった。

親がやっていいと言うもの。
親の許可が降りるもの。

 

そうして完成した

「私は親が許可してくれたやりたいことしかできない存在」いう思い込み。

もうすっかり忘れてしまっていたが、
私は無意識のうちに
やりたいことをやるとなったら
親がいいよと許してくれそうな範囲のことを選んでいた。

つまりそれは
条件がある中でのやりたいことだ。


 

会社で働いていた頃に
やりたいことができてパワフルだったのに、
会社を辞めた後
やりたいことをやっているのに満足感が少ないのは、

会社のルールという柵の中では
やりたいことをやれたのだが、
会社を辞めてその柵の外に出たら
迷子になってしまい、
心が満たされるほどのやりたいことがわからなくなった。


さらに、
私にはやりたいことをやろうとするとき、
夫や親友たちに「やりたいんだけどやってもいいと思う?」と聞く
謎の癖がある。


それは、
夫や親友たちを介して
頭の中の親に許可をもらいたかった。

親に許可をもらえること、
それが私のやりたいことの条件だった。


もう今はルールが無い環境。
針の穴に糸を通す必要もないのに、
せっせとそうしようとしていたから
心が満たされなかったのだ。

私は要らぬ思い込みがあったから

頭の中が、思考が不自由だったのだ。

この無意識の奥の方にある思い込みに気づいたとき、
目から鱗が落ちる前に
涙がこぼれ落ちた。

なぜなら、
これで本当に自由になれるわかり、
嬉しかったから。



本当の自由は
本当の満足は
本当にやりたいことは
誰かの条件の下にもない。
私以外、誰の許可も要らない。

私は自由に自分のやりたいことができる存在。

気づいたから、
もう大丈夫。

 

 

人生はオモロ〜!