俺はノルディア王国の国王との謁見に臨むため、王宮の一室で待機していた。
部屋には椅子やテーブルが用意され、飲み物まで出されている。
待遇そのものに問題はない。
……問題は、俺の緊張がまったく解けないことだった。
昨日から感じている、あの妙な違和感。
王宮の人間は丁寧に接してくれるものの、どこか事務的で、歓迎されているという実感がない。
今日の謁見でも、何か起きるのではないか。
そんな不安が、頭の片隅にずっと居座っていた。
「……はあ」
思わずため息が漏れる。
そのときだった。
「……トイレに行きたい」
緊張しているせいか、妙に催してきた。
謁見まで、まだ少し時間があるらしい。
近くに侍従の姿はなかったが、トイレくらい自分で探せるだろう。
俺は待機室を出て、廊下を歩き始めた。
王宮の内部は広い。
似たような扉がいくつも並び、初めて訪れた人間には、どこが何の部屋なのかさっぱり分からない。
「こっちかな……?」
廊下を進みながら、扉の位置を確認する。
そして、いかにもそれらしい扉を見つけた。
よし、ここだ。
俺は安心して、扉の取っ手に手を伸ばした。
ガチャッ。
「……あれ?」
ドアノブが回った。
しかも、鍵がかかっていない。
俺は少しだけ扉を押してみた。
ギィ……。
軋むような音を立てて、扉がわずかに開く。
その隙間から、部屋の中がほんの少しだけ見えた。
……ん?
トイレにしては、妙に立派な部屋のような気がする。
いや、そもそもトイレの内装なんて、まだ見えていないのだが。
俺がもう少し中を確認しようとした、そのときだった。
「そちらには入らないほうがいいですよ」
突然、背後から声をかけられた。
「うわっ!」
慌てて振り返る。
そこに立っていたのは、若い男性だった。
年齢は二十代前半くらいだろうか。
整った顔立ちに、すらりとした体格。
身にまとっている服も上品で、いかにも王宮に仕える貴族といった雰囲気だ。
……なんだ、このイケメン。
思わずそんな感想が浮かんだが、今はそれどころではない。
「あっ、す、すみません! トイレかと思って……!」
俺は慌てて扉から手を離した。
男性は、わずかに目を見開いてから、扉と俺を交互に見た。
「トイレ、ですか?」
「はい。初めて来たもので、場所が分からなくて……」
「なるほど。それなら仕方ありませんね」
男性は苦笑した。
「ですが、そちらは入ってはいけない場所です。次からは気をつけてください」
「はい。本当にすみませんでした」
俺はもう一度、頭を下げた。
男性は俺の姿をしばらく眺めていたが、やがて少し不思議そうに尋ねた。
「ところで……王宮では見かけない顔ですね。どちらからいらしたのですか?」
しまった。
確かに、俺は昨日この王宮に来たばかりだ。
しかも、普段から王宮に出入りしているわけでもない。
不審に思われるのも当然だった。
「失礼しました。私はベルク王国第一王子、アルヴィン・ベルクと申します。本日は国王陛下との謁見のため、こちらに滞在しております」
俺は姿勢を正し、改めて名乗った。
男性は一瞬、意外そうな表情を浮かべた。
「なるほど。あなたが、ベルク王国の第一王子でしたか」
そう言って、穏やかに微笑む。
「これは失礼いたしました。私は宮廷貴族のルシアン・ヴェルナーと申します。王宮に仕え、主に宮廷内の政務に携わっております」
「こちらこそ、失礼しました。王宮の中はまだ不慣れなもので……」
「初めて訪れる場所なら、迷うこともあるでしょう。もっとも、その扉だけは間違えないほうがよろしいですが」
ルシアンは、背後の扉へ視線を向けた。
「そんなに重要な部屋なのですか?」
「ええ。少なくとも、許可なく立ち入ってよい場所ではありません」
それ以上、彼は詳しく説明しなかった。
俺も、わざわざ聞き出すつもりはなかった。
王宮には機密を扱う部屋もあるだろうし、立ち入りを禁じられた場所があることくらい知っている。
「気をつけます」
「そうしてください」
ルシアンは、どこか気さくな様子で笑った。
その後、俺たちは軽い雑談を交わした。
王都の様子や、長旅の疲れについて。
俺が道中の馬車の揺れにうんざりしていたと話すと、彼は思いのほか楽しそうに笑った。
「なるほど。それは大変でしたね。ノルディアの道も、決してすべてが快適というわけではありませんが」
「できれば、もうしばらく馬車には乗りたくありませんね」
「お気持ちは分かります。私も遠方へ出向く際は、移動だけで疲れ果ててしまいますから」
「やっぱり、そうですよね!」
思わず声に力が入ってしまった。
ルシアンは、くすりと笑った。
こういう話が通じる相手はありがたい。
王宮に来てからというもの、俺はずっと気を張っていた。
何を言っても相手の反応を気にしてしまうし、必要以上に警戒してしまう。
だが、この男性とは不思議と自然に話せた。
こちらの身分を知っても、態度が大きく変わるわけでもない。
かといって、礼儀を欠いているわけでもない。
程よい距離感で接してくれるので、こちらも気負わずに済む。
……今までノルディアの貴族と何人か会ってきたが、この人が一番話しやすいかもしれない。
そんなことを考えていると、肝心な目的を思い出した。
「すみません。ところで、トイレはどちらにあるかご存じでしょうか?」
「ああ、それでしたら、この廊下をまっすぐ進んで、右手の角を曲がったところです。扉に案内板がありますので、すぐ分かると思います」
「ありがとうございます。助かりました」
俺は礼を述べ、軽く頭を下げた。
「いえ。国王陛下との謁見が控えているのでしょう? あまり遅れないよう、お気をつけください」
「はい。それでは、失礼します」
俺はルシアンに別れを告げ、教えられた方向へ歩き出した。
ようやくトイレにたどり着き、用を済ませてから待機室へ戻る。
これで、あとは謁見を待つだけだ。
……できれば、何事もなく終わってほしい。
そんな願いを胸に、俺は再び椅子に腰を下ろした。
一方、その場に残されたルシアンは、アルヴィンの背中を見送っていた。
「……アルヴィン・ベルク第一王子、か」
そうつぶやいたあと、彼はふと背後の扉へ目を向けた。
そして、先ほどの出来事を思い返す。
アルヴィンは、あの扉のドアノブを回した。
ガチャリ、と音がするほど、はっきりと。
さらに、扉はわずかに開いた。
「…………」
ルシアンの表情から、先ほどまでの気さくな笑みが消えた。
この扉は、ただ鍵がかかっているだけの扉ではない。
王家に連なる者だけが入ることを許され、王家の血を引く者でなければ開けられない仕組みになっている。
そして、その条件は単純に王家の血が流れていればよい、というものではなかった。
ルシアン自身も、王家の血を引いている。
ただし、それは遠い先祖をたどれば王家につながるという程度の、薄い血筋だった。
宮廷貴族として王宮に仕えることはできても、この扉を開ける資格はない。
何度試したところで、彼には開けられない扉なのだ。
それを、彼は誰よりもよく知っていた。
「……そんな馬鹿な」
ルシアンは、もう一度扉を見つめた。
アルヴィンは、何も知らない様子だった。
トイレと間違え、何のためらいもなくドアノブを回した。
そして、扉を少し開けた。
注意されると慌てて謝り、トイレの場所を尋ねて去っていった。
まるで、何も特別なことなど起きていないかのように。
「……俺には、開けられないのに?」
思わず、そんな言葉が漏れた。
王家の血を引く自分でさえ、この扉を開けることはできない。
それなのに、ベルク王国の第一王子であるアルヴィンは、あっさりと扉を開けた。
しかも、本人にはその自覚すらないように見えた。
「…………」
ルシアンは黙り込んだ。
単なる偶然で片づけるには、あまりにも不可解だった。
もちろん、今の段階で何かを断定することはできない。
だが、先ほどまで気さくな少年だと思っていた相手に、急に興味が湧いてきた。
「……アルヴィン殿下。あなたは、いったい何者なのですか?」
閉ざされた扉を見つめながら、ルシアンは小さくつぶやいた。
この出会いが、ノルディア王国の王宮にとって、決して無視できない意味を持つことになる。
その予感だけは、なぜか確かなものに思えた。