昨日の「薔薇のない花屋 第7話 親が子供を叩く時 」
あーもー完全に野島さんにやられました。
勝手な推測を元に、
全然違うストーリーを想像していて
馬鹿だ。馬鹿だ。
香取君。
私が想像していたよりも
もっともっとずっとずーーっと
深い大きな愛を持っていたなんて。
ちくしょう。
自分が想像できる、
そして実行できる範囲の
愛の大きさなんて
あまりにちっぽけで
くそみたいなもんだ。
あれは所詮ドラマの中で
私達が実際にはできないことだから
感動し涙するのよ、
憧れたってできるもんじゃない。
って思う一方、
でも、私にとって
野島さんの作品は
フィクションだからって割り切れない。
私は
自分が、
愛されるより
愛したいタイプだって思ってた。
だから
「愛されない」ことよりも
「愛することを禁止される」
のがつらいと思っていた。
だから、見返りは求めないで
大丈夫だって思ってた。
でもね、
最近、愛を与えた対象に、
「愛」を感じたという
レスポンスを望んでいたことに気付いて、
結局、その部分は欲しいんだって分かって・・・
せこい、せこい。
所詮、私は俗世間に生きる、ただの人だよ。
この1週間で、
私のまわりの友人たちが
同じ言葉を使って話しているのに驚いた。
隣人愛とか、
アガペーとか、
愛は対象が重要なのではなく
行為そのものをすることに意味がある、とか。
彼らは全く同じことを
私に教えてくれて、
あまりに奇遇過ぎて笑っちゃったさ。
ありがとう、
いつも導いてくれる良き先生たちよ。
(あ・・・みんな年下だwww)
で、アガペーをさっき調べてみたところ。
こんなん出ました。
●アガペー
ヨーロッパ ギリシャ共和国 AD
『新約聖書』によって確立されたキリスト教的愛の概念でエロス(eros)と対比させることが多い。エロスが,その典型である男女間の性愛にみられるように,愛の対象のもつ価値に惹かれるのに対して,アガペーは対象そのものに向かう愛である。エロスが対象を介してより高い価値に向かう自己中心的な愛であるのに対して,アガペーは他者中心的な愛であり,自己犠牲・自己否定的な性格の愛である。新約聖書においては,アガペーはまず神の人に対する愛として現れる。一部を引用すると〈キリストがわれらのために死なれることによって,神はわれらに愛を示された〉(ロマ書5・8)とある。アガペーはまた同時に,人の神に対する愛であり,人々相互の隣人愛でもある(マタイ福音書22・37~40)。代償を求めての打算的な愛ではなく,本質との純粋な交流をめざすアガペーは,宗教性の真髄を表す概念である。またそれは,利己的関心を原理とする近代市民社会にあっては,宗教性とは別の意味でも,示唆する多くのものを含んでいる。
セックスをテーマに扱うお仕事をやっていて
アガペーがエロスと対極の言葉だなんて
かなりギャグだ。
私よ、