父の若い頃は、字が達者で絵心もあったのでそれを生かして、 新聞の連載記事に少しだけ関わっていて、土、日以外は毎日掲載していたそうです。 当時の新聞は1月、2円位なので。今からすると、考えられない安さです。

記事は片面35㎝×10㎝のスペースの中に有名小説家の執筆記事が収まる内容で、残ったほんの少しの部分が父の担当でした。

期間は短い連載でも1~2ケ月、大作になると半年近く続く物も有るそうです。

残った部分に、侍の挿し絵と巻頭にタイトルの字を載せる事だけが父の仕事でした。

思う程の収入ではなかったそうです。

仕事が他の作家に変わると、忽ち失業です、しかしある人が父に手を差し伸べて下さいました。

おかげで大企業に就職出来たのです。

どちらかと言えば芸術的才能のほうに秀でていて、事務机に一日中座るのがとても苦手な父でした。

ところがどうした事か、あれだけ机仕事を嫌がつていたは
ずの父でしたが、

いつの間にかトントン拍子に出世していき、高い地位を得た父に、具申する者も居なくなり慢心したのでしょう。

部下を連れて毎日飲み歩き、どんちゃん騒ぎで、任されていた二棟の大きな工場を全焼させてしまったのです。

来るべき時がきたのです。毎日浮かれてばかりいて、自分の大切な工場が燃えている事すらも気が付かなかったのですから。
罰が当たったのです。

この当時、私はまだ生を受けておりませんでした。

退職を慰留された父でしたが、その後はマッチ箱の宣伝広告をする製作会社を始めました。その頃のマッチは一箱2円程でしたので相当貴重な物だったのですね。当時の新聞と代わらない値段とは不思議です。

当初は順風満帆、笑いが止まらない程儲かったそうです。

しかしまたもや、酒が、往く手を阻みました。先々で金をばら蒔き、それと同時に、会社経営も上手くいかず塞ぎこむ毎日がやってきました。

それやこれやで、私の実家から勘当された父と新居? に来てから約一年が過ぎようとした私の4才~5才頃です。

父が仕事をしていた看板会社でアルバイトを頼まれ、黒くて細長い油紙に、ポンチで字や絵の形に穴をあけて宣伝広告を電気で浮きあがらせる父の仕事を見ていて、

小さいながらも、苦戦している父を見ながら、手伝える事があれば早く手伝って終わらせてあげたい。

頼まれたお客さんに早く届けられれば、それだけ早くお金が貰えてみんなで食事が出来る。

私の頭にはその事しかありませんでした。

何をやっても上手くいかず、母に生活費の遣り繰りをさせながら色々な仕事を経験してきた父がとうとう観念したのです。

看板製作の過程で知り合いになり、気心の知れた友達に誘われていたペンキ職人になる事を決断したのです。……