SNS時代になってから、

人の念が勢いよく飛び交うようになった。


応援の気持ちも

妬みの気持ちも

飛びかう。


それを受ける側。

放つ側。


誰もがその、両方を経験するはず。


やっかいなのは

悪い想念が生霊としてエネルギーをもってしまうこと。

何かに対して

いいな、と憧れをもち、自分を鼓舞する材料にするのは良いとしても、

某写真SNSって

スクロールに無駄な時間をかけると

自分を鼓舞する材料にはならない。


その時、人は自覚せずとも邪気を放つ。

邪気はたまると自覚なしの生霊になる。

その邪気は相手だけでなく

自分へも自己中毒を起こしてしまうので気をつけたほうがいい。



私の亡き祖母は、何か自分のものを人に見せびらかすことをとても卑しいと教えていた。反対に人を羨ましく思ってもいけないと教えた明治生まれの気丈な祖母だった。


余談だが

石垣の方言で、といってももうこう言う方言使う人も子供もいないけど

ミーファーという言葉があって

小さい時、私の兄は自分だけ美味しいものを食べている時に

ミーファミーファと意地悪をいいながら見せびらかしてきた。

すごい悔しかった笑

もちろん兄は祖母に叱られていたけど。



あの写真グラムSNSが来たとき

心の中で違和感があった。


それなのに、私も毒されていたな。

つまり自分の邪鬼がいつのまにか育っていたのだ。

それを承認欲求と言う。


私はこれまでSNSでも妬みをかってしまうような投稿は避けてきた。


どんな人がみてるかわからないから。

こころ病んでいる人が見るかもしれないから。

人って何がきっかけで闇落ちするか

わからないし。すごく親しみやすく近づいてきても、裏切られた事が写真グラムであったから。文字の交流だけでは信用しないと決めている。必ず会ってからと決めている。


それでも商売のために行わなければならない事もある。

それが生霊を飛ばされるきっかけになると

こわいな、と思う。



誰でも魂は純粋で綺麗。

誰もが自分の修行のため、輝かせるために、宿題のために降りたった地球。



世界の化け物企業が作ったコレって、、、

これは魂輝かせるツールなんだろうか?

私たちの魂に余計な邪鬼を生むツールになってないだろうか?

もしそうなら、タバコのパッケージ注意書のように、健康を害する恐れがありますって書いてある、アレのように

邪気を放つ恐れがあります、ほどほどにして自分の人生に注意しましょうと、

書いておいてほしいわね。



そんな時に、

この詩がふと、思い出された。


詩人 金子みすゞさんの


『大漁』


朝焼け小焼だ、大漁だ

大羽鰯の大漁だ

浜は祭りのようだけど

海の中では何万の

鰯のとむらいするだろう


・・・・・


私達は見えているものだけを心を奪われがちだ。

喜びの後ろには悲しみがある

笑顔の裏には

涙がある。

それは誰でも。

どんな人でも。


SNSを見る時、

それがことさら眩しく思える時は

上の鰯の詩を思い出しつぶやいて欲しい

思い出して

無邪気に帰って欲しいのだ




たった1匹の魚の後ろにある大群を。

笑顔の後ろにあるとてつもない苦労を。

心の葛藤を。


それは

誰も誰も誰も誰も誰も!

同じであることを。




だから、まんまとはまって

あなたの魂が餌食になりませんように。


自分の魂を輝かせるツールとして、使いこなせますように。



そう思ってこのブログを書いています。


そうそう、私

インスタをやるとき(あ、言っちゃった😂)

中学生の頃思い出す事があるの。

中学生の修学旅行のとき。

私そのとき

カメラを持っていなくて

持ってる友達が羨ましかった

でもね、

後で修学旅行の作文書くって知ってるから

色々な風景覚えてないといけない。


中学生の私がそのとき覚悟して


心の目で見て

集中して記憶しよう


そう思った。


不思議なんだけど

そうやって五感を働かせて過ごした旅行は

思い出も一味違った。



今も、この写真SNSにあげようとか思いながら撮らない。


私が見た世界は自分の集中した世界として心に残るからわざわざ写真に残さない。


その方が五感が働き

一瞬を大事に生きている気がする。



もし、あなたが邪気にやられているとか邪気の自己中毒を起こしていると感じるなら


五感をしっかり感じる日々を

誰に見せびらかすこともなく

自分だけのものとして過ごして欲しい。



あなたの唯一の写真グラムは

装飾した切り取られたところにはなく、


心にこそある。

あなたがどう感じて生きているのか、にあるのだから。