東京総合教育会議

 

は、東京都の教育に関する「大きな方針」などを話し合う場です。

小池百合子東京都知事が招集し都教育委員会のメンバーとともに議論がされます。

 

 

 

令和2年2月13日に開催された東京総合教育会議は、議題が

共生社会の実現を目指した

学校におけるインクルージョン

でした。

 

このトピックを取り上げていただけただけて、感動でした爆  笑キラキラ

 

 

 

総合会議は小池百合子都知事のご挨拶からでした。

 

小池百合子都知事発言

 

「未来の東京戦略ビジョン」では、様々な人がともに暮らし多様性に富んだ東京、そして多様な人がともに支え合う「インクルーシブシティ東京」を目標に掲げています。

 

その実現に、教育の力は極めて大きい。

 

「これからの特別支援教育のあり方」につきまして、特に「共生社会に向けた教育」ということをフォーカスし、議論を進めていければと思います。

 

 

 

ゲストとしてお話をしたのは、

NHK「バリバラ」出演で有名な

玉木幸則さんルンルン

 

玉木さんはー

 

●脳性麻痺があるスペシャルニーズ当事者

●福祉協議会でスペシャルニーズ支援に従事

 

●幼少時代は入所施設で分離を経験

●小中学校は通常学校でインクルージョンを経験

●高校は全寮制養護学校で分離を経験

●大学は普通の大学でインクルージョンを経験

 

ということで、

 

スペシャルニーズのある当事者としての目線

スペシャルニーズのある方への支援をする目線

そして分離とインクルージョンの両方の経験

 

もあります。

 

多角的な経験と視点から紡ぎ出される言葉は非常に含蓄があり、すべての参加者が聞き入っていました。私の心にビンビンと響く感じで感極まりながら聞いていました。

 

 

<玉木さんの発言>

 

今日のテーマは

「フルインクルージョンの実現に向けて」

としました。

 

 

●生まれてから死ぬまで「フル・インクルージョン」

インクルージョンはインクルージョンでも「フル」というのは、なかなかついていないと思うんです。今日のテーマは「フル」というところにこだわってお話しさせていただきます。

 

「ともに学び、ともに育つ」ということは、生まれてから死ぬまで、学校教育だけではなくて、生きているあいだフルインクルージョンという状況を続けることで、お互いの幸せを共有していけるんじゃないかなと思います。

 

僕は、大学卒業後は、一貫して障害福祉の仕事をずっとやってきております。

今は生活福祉資金の「貸付業務」とかをやっておりまして、兵庫県では、私立の高校や大学に行くときの助成制度が少ないものですから、貸付を子どもにして、高校等にいってもらうと。ただし最近出てきているのが、中学校で引きこもっていた子が、この時期に「通信制に行くから金を貸してくれ」ということを、学校を通さずに来られる場合がある。条件が整えばお貸しするのだけど、果たしてその子たちが本当に高校を中退せずにいけるかどうかとか、それが足かせとなって、負債を抱えて社会生活が送りづらくなることが直面することが見えてきてます。

 

今日は障害のある人の学校の学びの話をするのですが、行き着くところは障害があってもなくても、きちんと学びができて、社会生活が通常に送っていけるようにどうしたらできるかということを考えていきたいなと思っています。

 

 

NHK「バリバラ」は、みんなのためのバリアフリー

NHKの「バリバラ」という番組をやっております。(NHK/バリバラHPより参照)

https://www6.nhk.or.jp/baribara/

 

番組が始まった時は「障害者のための情報バラエティーバリバラ」といっていたのですが、今は「みんなのためのバリアフリーバラエティ・バリバラ」という風にしています。去年話題になった薬物依存の問題とか、外国人技能実習生の問題とか、被差別部落地域の問題とかもやり始めているので、多様性をどう共有して認めていくかということを番組ではやっています。

 

 

優生思想全盛期に生まれ幼くして分離を経験

⇨地域へのこだわり

 

僕は今、51歳で、子ども2人おりまして。今日実は娘の誕生日なので、(この会議が)終わったらさっさと帰ります(笑)

 

僕は、仮死状態で生まれて脳性麻痺になりました。当時は優生思想の全盛期でした。

 

僕は兵庫県ですが、「兵庫県庁の中に不幸な子どもの生まれない対策室」というのがあった時代なんです。今、優生保護法の裁判とかが起こされているけど、実はその先頭を切ってやっていたのが兵庫県で、僕は当時、兵庫県にとっては「不幸の子どもの象徴」だったんです。だから行政から「施設入所」を強いられて、(4歳から施設入所し)月に親に2回しか会えないという経験があった。

 

そういう経験があったからこそ「地域にこだわるようになった」というかね。やっぱり「みんなと一緒」というのが大事だなと。

 

 

小中学校は通常学級で合理的配慮受ける

それで、小学校に入る時は、就学前検診で「養護学校に行け」と言われたんだけど、結果的に小学校と中学校は、普通学校に行きました。小学校に入るときは、学校に「誓約書」を書かされていました。「通学については親が一切責任を持つ」と。この誓約書がなかったら、入学を認めないということでした。

 

ただ実は当時から「合理的配慮」というものを、僕はしてもらっていたんです。

 

例えば小学校2年生の担任は、黒板の板書をして、みんなが書いている間に担任が僕の横にきて、僕のノートを書いてくれてたと。僕のノートが描き終わる頃にみんなも書き終わるから授業が始まるというような「工夫」ですよね。これをやってもらっていたと。修学旅行なんかは、別の学年の先生を一人僕につけてくれて、それで行けた。

ところが今は残念ながら「ヘルパーをつけろ」とか、「親が付いて来てください」とか。みなさん、どうです?修学旅行にお母ちゃんが着いてきて、好きな子のおみやげ買おうとした時に、「あんた、これ誰に買うん?」って言われるの。嫌でしょう?ていう話なんです。でも「行くことに目的を置いている」から、悪気はないけど「お母さん付いて来た」と言っちゃっている状態があるということです。

 

なんと小学校では児童会長をさせてもらって、中学校は副会長を2回やりました。

まぁ変わった学校ですやん(笑)

 

高校では全寮制養護学校で分離を経験

⇨社会生活がない環境では「社会に出るための準備できない」

 

そういう経験があっても、高校はいまだに義務教育じゃないから、「養護学校に行け」と言われて、全寮制の養護学校に行った。

 

「君たちがここ(全寮制養護学校)にきたのは、社会に出て困らないように勉強したり、訓練するためなんだよ」という説明を受けた。

 

ところが(養護学校のような)閉鎖された環境の中で、実は、社会生活って、おくれていなくて、それで学校を卒業してから(社会生活)を一から始めるというのは、手遅れなんですよ、はっきり言ってね。

 

やっぱり、生まれた時から、みんなやっている生活を送っていくことで、悪いことをしていたら怒られるとか、仲良くすることとか、どうやったら私の言うことが分かってもらえるとかというのを、積み重ねていくから、「社会に出て困らなくなる」わけです。

 

(みんなのいる場から)取り除いて育てていくけど、高等部出たら「さよならー」と言っちゃったら、「さよなら」と言われた人は、どうしたらいいかわからないわけです。

 

すべての子が年相応の社会生活経験が必要

 

僕が言っているのは、「社会生活」は生まれた瞬間から始まっていて、5歳は5歳なりの、10歳は10歳なりの社会生活経験が必要で、その社会生活経験をどうやって積んでいくか。それは別に障害があるとかないとか関係なく、みんなが年相応の社会経験が送れるようにしていくことが必要なのかなと思います。

 

 

合理的配慮とは「合理的な調整・工夫の積み重ね」

 

僕は生まれてこのかた51年この体だから、僕はこれが(障がいではなくて)普通なんですよね。僕が感じる「障害」というのは、「社会の生きづらさ」です。社会に障害があるわけです。(障がいの社会モデル)

 

合理的配慮とは理にかなった調整で「その人が生きていくための理にかなった工夫の積み重ね」です。決して「お願い」ではなくて「権利」です。「配慮」という言葉自体が対等ではない。

 

わかりやすくいうと、学校にエレベーターをつけて「合理的配慮が完了!」ということでは絶対にないんです。その瞬間瞬間に、どういう工夫がいるかということを、お互いに確認していくことが、じつは合理的配慮なんです。それを学校だけじゃなくて、日常の生活の中でみんなが意識的にできることが大事かなと思います。

 

 

インクルーシブ教育という世界潮流を日本は「見ないふり」

(1994年に採択された)サラマンカ宣言でも、25年前から、国際社会でもインクルーシブな教育をやっていきましょうといっているのにも関わらず、文科省を含めてこれを「見ないふり」をしてきたツケが回ってきたと考えてもらっていいと思う。

 

 

個別支援の前提となっている

「インクルーシブな環境」を度外視

 

(日本が2014 年に批准した)障害者権利条約も、原文には「完全に包容され(フル・インクルージョン)と書いてある。

 

しかし(日本は)障害者権利条約に定められている「障害者が、その人格、才能及び創造力並びに精神的及び身体的な能力をその可能な最大限度まで発達させること」だけをファーカスして、その前提としての障害者を包容するあらゆる段階の教育制度

を度外視しています。

 

つまり本来は「インクルーシブな環境」が前提で、その環境の中で、個別ニーズに合った教育をどうしていくのかなのです。しかし、インクルーシブな環境は度外視して、個別だけを運用しているのが、今の日本の特支援教育です。

 

「障害者が、その人格、才能及び創造力並びに精神的及び身体的な能力をその可能な最大限度まで発達させること」が、特別支援学校が必要とか、特別支援学級が必要とかいう風になっている。

 

学校教育というのは、生活のほんの一部の時間であって、それ以外の時間のことを考えていくと、「ともに生きるということが大事だ」と思っています。

 

 

普通学校でまぜこぜで柔軟に動きながら

一人ひとりの能力を伸ばす⇨それがインクルーシブ

 

簡単にいうと、いろんな子がおって、特別支援学校でも、理解度別でクラスを分けている。これをやっちゃうと、一部の人は「これは差別だ」という人もいるけど、そうするとね、例えば私立の特進クラスで勉強できる子だけを集めてやっていることは、これは差別じゃないんですか?っていうことです。

 

だから本当は、障害があってもなくても、普通学校でまぜこぜで、一人一人の能力やスピードでやり方で、勉強ができるんじゃないかな。学校内で柔軟に動けるような仕組みを作っていくことでインクルーシブができていくと思う。

 

 

インクルーシブ教育実現には教員の専門教育

 

今の教員も、インクルーシブ教育で育ってこなかったし、インクルーシブ教育の専門的教育を受けてこなかったとすれば、インクルーシブ教育を展開できるわけがない。

一方で、(教育現場では)「子供達の育ちのためを考えると、特別支援学校がいいですよ」と、根拠のないことを言って、家族の不安を煽っている。

 

 

家族・教育・福祉・保健・医療・労働が連携して

育ちの段階で「ともに学び育つ」ことを考えたい

 

もし特別支援学校で、(社会に出て困らないようにするという)個別支援がちゃんとできているんだったら、なぜ高等部を卒業した時に、一般の会社で働くことができないのか?なんで、高等部卒業して、入所施設に行ってしまうのやろか?

 

これは説明がつかないんです。

 

だから育ちの段階で、障害のある人とその家族、教員、教育委員会、福祉、保健、医療、労働も入れて、いろんな関係者とともに、どうすれば共に学び育っていくことができるのかということを考えていきたいなと思うのです。

 

ありがとうございました。

 

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玉木さんのお話は、わかりやすく、論理的

 

そして経験に裏付けられて説得力があり

 

心に響きました。

 

ひとりでも多くの方に届いて欲しいと思い

 

ここに共有させていただきました。

 

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次回に続きます!!