教員資格を取るためには、一般的に大学などでの教育学部で単位を取得し教員資格認定試験に合格さえすれば誰でもなれます。

 

 

ここでメンタル的な資質は問われることはまずありません。

 

 

 

昔から教師という人たちは、本当にひどい人たちが多かったのです。

 

 

 

 

かつては生徒に殴るけるの暴行は日常茶飯事で、彼らが傷害の罪で逮捕されることはありません。あの空間だけ治外法権なのです。

 

 

 

今ではさすがに暴力事件は少なくなりましたが、言葉による暴力は、昔と全然変わっていません。

 

 

 

 

会社組織などでは、パワハラや名誉棄損なので訴えられても仕方がない案件が多すぎるのです。

 

 

 

 

 

指導死とは生徒が、教師の激しい叱責などで自殺に追い込まれることを言います。

 

 

 

福井県の中学校で昨年3月、2年生の男子生徒が自死しました。

 

 

宿題の提出や生徒会活動の準備の遅れを、何度も強く叱られた末のことだったそうです。

 

 

 

周囲が身震いするほど大声で怒鳴ったそうです。

 

 

 

 

副会長としてがんばっていた生徒会活動を「辞めてもいいよ」と平気で言っていたそうです。

 

 

 

担任と副担任の双方が叱責一辺倒で、他の教師は見て見ぬふり。

 

 

 

生徒は逃げ場を失ってしまい、最悪の結果が起こりました。

 

 

 

 

 

 

教師という人たちは、自らの感情をコントロールもできない、いわば感情が劣化していて人間的成長の見込みもないという人がとても多いのです

 

 

 

 

これはもういじめとほとんど構造上同じものです。

 

 

 

今の教師は、人間関係はあくまで対等であるということも知りません。

 

 

また基本的人権や人間の尊厳も知りません。

 

 

もはや解決策は学校というものを可視化し警察に介入してもらうしかありません。

 

 

 

これはもう緊急事態なのです。

 

 

 

もちろんいい教師もいることぐらいは理解しています。尊敬に値する先生もいるでしょう。

 

 

 

 

 

私が小学校3年の時の実例をお話しします。

 

 

私と私の友達、この二人だけがなぜか、担任にひどい差別を受けていました。

 

 

この担任はクラスの生徒一人一人に将来どういう職業に就くかを勝手に決めてクラス全員の前で公表しました。

 

 

 

ある人は会社社長、ある人は画家、など夢のあるような職業を言っていました。

 

 

 

そして私たち二人の職業は、私はゴミ処理場現場で働く人、もう一人は、汲み取り便所掃除人と言われました。

 

 

 

この発言は明らかにその職業に就く人たちを差別した発言であり、私たち二人もひどく傷ついたことを覚えています。

 

 

 

 

本来教育とは、子供を押さえつけ抑圧するものではありません。

 

 

 

生徒に夢を与え、将来に向かって羽ばたくようサポートをすることなのです。

 

 

 

このことをわかっていない教師たちが、あまりにも多いのであえて今日は、ひどく辛口な内容にしました。

 

 

 

教室はもはや地獄とかしています。 

 

 

 

 

 

幸せアドバイザー高本哲