投げ遣りになることは簡単だけど、とても勇気のいる行動なのかもしれない。

臆病者である、我輩は安易になれず、ビクビクしている事が多い。

周りの状況を把握せず、自分を軸に考えてしまう事は誰にでもある。

想う誰かがいるならば、投げ遣りに生きては悲しい。

そして、話しは最初に戻る。


投げ遣りになった所でも、ある程度の年齢に達していれば、常識の理解を要され、責任が生まれるのだろう。。



最終電車を迎えた駅長さんと話す機会がありました。

運休や遅延。。普段から当たり前を要求され、少しの遅延や運休でも、大混乱だそうだ。

文明の発達に、我々人類の感情を制御する事の成長は大きく離れてしまっているのかも知れない。

人の命を預かる駅長さんが、帽子を脱ぎ、額の汗を拭く姿に、オトコを感じ、脱帽です。

交通機関も、原子力安全保安院も、武士のような逞しい魂で立っていると信じよう。
信じたい。


やっぱり、信じて待つしか出来ないな。


誰かを混乱へと導く事になるのは嫌だから、僕は信じて、待つだけなのだ。
TSUYOSHI