それは私の日常で恒常的に出現する不吉な振り子に巻き込まれそうになる兆候だ。

 

 

 

 

日本で働いているとあまりピンとこないかも知れないが人間どんなに一生懸命働いていても当然元が不誠実な人相手には、そしてそういう人間が内に関わる以上全て台無しにされる時はやっぱりあるものだ。

 

 

 

 

どんな事があったなど下らなくて話す価値も書く価値もない、それはゴミであり毒だから他人様に感染させてはダメだ。不用品を他人様に背負わせようとする人が大抵の場合自分の感情と責任にケリが付けられないエゴイストであることが多い事と似ている。

 

 

 

 

だから同じ理由で嫌な気分になるのは仕方ないがそこでいじけてしまったり陰に入ってしまうのはやはり勘定が合わないのはわかるだろう、そこで失われるのは自分の大切な時間、人生であり目の前の素晴らしい世界だ。

 

 

 

 

「 何か見つけろ、趣味を持て 」

 

 

 

 

これは閉塞した社会では気休めのアドバイスにしか聞こえない人は沢山いるはずだがやっぱりこのフレーズには扉が隠されていると最近思うのだ。

 

 

 

 

ここの連中はそれなりのストレス解消であり趣味で酔っ払っている様だがストレスの原因、私が最もツラを見たくない奴が混じっているなら私にはそこはストレス解消の場ではないし酒は人外の親友と楽しめる以上必要がない。

 

 

 

 

要するに筋トレだったりカンフーが私のそれだが瞑想や気功は最初の内はやめた方がいいかも知れない、だが没頭できるならそれも何も言わない。

 

 

 

 

何が言いたいかというと没頭できるなら読経でも写経でも運動でもなんでも良い、それが

 

 

 

 

「 趣味や見つける何か 」

 

 

 

 

なのだ。

 

 

 

 

心が不貞腐れてきそうだと思ったら自己憐憫は最も最悪の事態でスピリチュアル専門家の人たちがよく言う事だが、

 

 

 

 

 

「 楽しいことに目を向けてください 」

 

 

 

 

 

これは正しくもあり間違ってもいる、私には間違いではないがアプローチと素材の難易度が高すぎる。

 

 

 

 

 

憎い敵のツラが脳内を暴れ回っている時に自分の好きな事はそれを汚す事になりかねず、殺してやっとスッキリする敵のツラが紐付けされてしまえばせっかくの手料理に異物毒物をかけてテイストするのと同じくらい危険。

 

 

 

 

だがカンフーや武術、マインドフルネス瞑想、要するに没頭/集中が命のものはそれらのゴミや毒物から自分を護るバリアとなり経過する時間がそのまま自身の進化となる、これは単なる格闘技にはカバーできない効果だと確信する。

 

 

 

 

単なるスポーツ、ボクシングであったり筋トレであったりするものでも獲得はできるかも知れないがそこには禅の要素を知る必要がある、ここが大切だ。

 

 

 

 

アドレナリンや怒りに任せて暴れる運動になってしまえばケガをするし技術の向上としては効率が下がる、怒りを爆発させるストレス解消は、例えばさっきの酔っ払いだが、酔っ払い悪口や侮辱を吐くのがこれだが怒りを微つけるタイプの手段は非常に初歩かも知れないが最終手段、外科手術の様なモノで腰が痛いだけでとすぐにヘルニア手術を選択する医者や患者みたいなもので下等、と言わざるを得ない。

 

 

 

 

そういう酒を飲むと結局は最初から飲まなかった方がいい酒になり傷害や物損で賠償を負ったり事故でケガをしたり等、スポーツでも身体を疲弊させるだけならともかくケガをしたり身体や精神の何処かで無理が来て疲れたりその他心身の何処かを傷めることになる、その痛みを誰かや何かのせいにして自分でケアしないで怒ったり悲しむ、さっさとケアすれば良いのに。

 

 

 

 

 

 

こういうバカはその辺に履いて捨てるほどいるがそういう仲間と傷の舐め合いなんかしてしまえばもうあなたの人生は終わった様なもの、といったら怒るだろうがそれが何故だか私は知っている。

 

 

 

 

 

だってその人にとって全部他人のせいだから。

 

 

 

 

 

そうだとしても彼/彼女が改心して訪ねてきて必死に許しを懇願し、埋め合わせをしてくれる日まで恨み続けて自分を放置し続ける、まさかこんな事を考えたり思ったりしていたらさっさと辞めて考えを変えた方がいい。

 

 

 

 

 

これはインターナショナルでルーザー、負け犬の信念だ。

 

 

 

 

 

 

私は駄犬かもしれないが負け犬ではない、そしてまだ生きている。ソリューションはもう見つかった、後はそこへの献身をするだけ。

 

 

 

 

多分翆虎師父がいう偏差とはこれが外科的や脳内プログラム化されて刷り込まれて7のゾロ目、超深刻化したものだ。ならば彼が推奨する人間の生活としてのカンフーとはそういうものではない。

 

 

 

 

 

没入してそこに集中すれば何もかもがどうでも良くなるものでなくてはいけない、振り子の罠をすり抜けて宇宙の真理に近づく作業、

 

 

 

 

 

多分それが見つけるべき趣味であり自分のための見つける何かなのだ。