今少し古いカンフー映画を観返している、とても私にはレアな映画、これと同じ空気を放つ映画も中々ないだろう。

 

 

 

 

カンフー映画で二度も三度も観たい映画というのは実は殆どない。

 

 

 

 

 

詠春拳の映画だが私は少しイップマンやグランドマスターなどの映画をそこまで熱狂して額面通り受け取れない人間で、実は私が昔詠春拳に入門したキッカケは置かれた環境に一番近い映画を観たからだ。その映画は戦争中の臭いが強く血生臭い私のいた空挺第二中隊の暴力の記憶と非常に相性が良かった。

 

 

 

 

イップマンは葉問一族の賛美に偏り過ぎていてどうもしっくり来ず、グランドマスターは美しい映画でよくよく酷い目に遭った事がないと幻想的なエフェクトに呑まれてしまいこれまた特撮など努力の方向がボカシに向かい過ぎた。

 

 

 

 

そしてその映画とは、

 

 

 

 

「 The Final Master 」

 

 

 

 

 

主人公は自らの流派、詠春拳であの甘栗とラストエンペラーも清朝滅亡後に日本軍に満洲国のクラウンパーツとして拉致られるまでプラプラ遊んでいた事で有名な戦争中の混沌の街、天津で身を立てようと地元の武術界にコンタクトを取る、わざわざ義理を通して会長に謁見後、おまえの育てた弟子を既存の8門派に道場破りをさせて勝つ事ができれば詠春拳の天津での普及を認めようとの約束を取り付ける。

 

 

 

だが明治期の日本の様に手合わせ試合はほぼ決闘でイップマンの様な素手の立ち合いではなく詠春拳の得意とするダブルナイフ、双刀で行う一歩間違えれば死ぬ果し合い。

 

 

 

 

 

 

 

そこに実際天津にたくさんいた当時勢力争いに敗れ民国軍の主流から外れた軍閥や青幇ギャング、その他大小のカンフーの派閥が鎬を散らし利権の問題から武術以外での暗殺や謀略が渦巻く社会で展開される物語。

 

 

 

主人公は道場破りでやって来た荷役組合のギャングの若者を叩きのめし観念したその男を弟子にする、意外にも素直で実は正義漢である人格を見抜いた彼は自分の詠春拳の全てを伝授し若者はソレを上回る成果で応える、そして彼は8っつの立派に試合を申し込む、そして七つの立派を破り詠春拳は新進気鋭の勢力として天津に君臨するはずだったが直前でほぼヤクザの軍閥の少佐に暗殺されてしまう。

 

 

 

 

結局のところ天津の武術界は単なる戦争中の乱立した暴力団で主人公は逃げ出したくても逃してくれず止むなく決闘というより追っ手を殺しながら現地で捕まえた奥さんと逃げまくる、後は実際に鑑賞して欲しい。

 

 

 

 

 

 

実力があっても正攻法で生きられる世界とそうじゃない世界があると言う真理、宇宙がそこにあり、手前ミソで言うなら武術の想定する相手はタオの世界、カオスであると教えてくれる詠春拳師父と拳士の映画。

 

 

 

 

 

とにかくアクションは小手指のテクニックで綺麗に終わる、言っちゃ悪いが合気道同好会の演舞の様なエクスポ的アクションではなく真に敵対した敵とはやはり生死を賭けた凄惨なモノ、その中にあって血の池地獄を必死に生きる主人公に真の武術家を観た少数の目の肥えた武術家だけが彼に、

 

 

 

「 好功夫 」

 

 

 

とコメントして自らの武器を託す事で敬意を示すシーンがある。血に塗れながらも武術家同士の決闘には相手に理解の余地を絶妙に残して、しかし、

 

 

 

 

「 ダメだこりゃあ 」

 

 

 

 

 

 

 

と判断できる奴は秒でスッパリ殺す。

 

 

 

 

これはとても大切な事だ、主人公の弟子の若者は正直可哀想だし現在の武術はこう言う好青年に引き継がれるべきだと思う、しかしドブネズミに情けをかければ、例えばたくさんの人たちを行きたい場所にお連れする空港から往来するジャンボ旅客機、人類に貢献するあの素晴らしい事業に従事する旅客機は発射筒と併せてもたったの世界市場価格400USD以下の携帯ロケット1発でたくさんの夢を抱く尊い乗客の人命と共にいとも簡単にオシャカになる。

 

 

 

 

 

その射手が何者であろうがソレを探知した時点で躊躇わず状況を秒で理解して射殺できない兵士や警官はその役目を果たさない、そのカラクリ、世界の持ち方を知るプロフェッショナルの一つの分野が武術家、カンフーであるという一面が織り込まれている。

 

 

 

 

このバランスと線引きを表現できるのは日本人ではなく中国人にこそ相応しい、その4千年の長きの間にイス意外の全ての生命体を飲み込みテイストして来た無限大の胃袋、じゃなくて懐を持つ根幹のタオイズムが私を虜にしてしまい今日まで独りで楽しむ私のとっておきの自慰行為映画となっていた故だ。

 

 

 

 

この映画を観る時、いくら死病や二本足歩行のドブネズミに囲まれようとも生命力と意志、夢の絶える事のない戦士の向上心を私に与え続けてくれた珠玉の映画、ソレが、

 

 

 

 

「 The Final Master (師父)  」

 

 

気が向いたら観てみてくれ、例え彼の国と戦争に突入したとしてもしなくても、我々日本人の世界観価値観はまだまだ狭すぎる。

 

 

生命力がピューピュー血がピューピュー、色んな意味で噴水/泉の様な映画。これは日本人には表現不得意分野だ。

 

 

 

 

人生とは自己規律で律して上手くいくものでもあり、そしてより良い自己規律は沢山の選択肢から柔軟に選定し構築するものだと私は思うのだ。