先週末もフリウル島へ渡りまた別の要塞に行って来た。
カボー砲兵陣地にはお互いの背中合わせで死角を補い合った別の陣地があると複眼トーチカの射方、そこに至る道の途中にある交通壕の後で前回訪れた時に推測した高台に上がってみた。
とにかくカモメが攻撃的できっと巣を守ろうとしているのだろう、侵入者の私に金切り声で威嚇しう糞を急降下で当ててくる、しかしそのクソは海藻を食べているせいか生物的な胃腸の未発達ゆえか無臭で緑色の離乳食の様だ。
そんな中で倒壊しかけたトーチカ、そのトーチカが最も護りたかった陣地の方向に足を進める、険しい高台の頂上は撃破された、というより意図的に進駐により日本の砲台と同じ要領で破壊された並列の砲台陣地があった。
砲兵たちが寝起きしていたであろう要塞化された地下壕は入り口の掩体部は破壊され屋根は吹き飛ばされ破壊されていたが奥の天然岩に掘られた掩体壕はきちんと残っていた。
フランスが作ったモノの様で建築様式は横須賀の猿島要塞と同じフランス式建築の要塞。
私は単なるお城マニアでもあるけれどこういう場所を好んで回るのは理由がある。
やはり古の武器や城で手付かずのモノには記憶があってそれを感じることができるから、だが何も感じない人もいる一方で気味が悪いと忌避する人もいる。
九州の幹部候補生学校で戦史研修という授業がある、そこで西郷軍と熊本鎮台の官軍が激突した熊本城周辺や警視庁抜刀隊と薩摩西郷軍が戊辰戦争の遺恨を晴さんと激突した古戦場は今でも十数年前の当時でもその生々しい記憶が取れた。
沖縄の各古戦場に於いては涙が出てくるほど、嫌になる徒労感に絶望感までが感じられた、だが同時にそこを護る先人の強い意志と必死の信念や想いもまた汲めるのだ。
それは無言でも伝わる大切なモノが私にはある。
最後に大雨が降り始めたが最後の入江を跨いだ砲兵要塞に、ここは半島だがやはり入り口にはトーチカが機関銃を、もう一つの監視哨は半島の入り口を、村からの人のアクセスを制限している。
ドイツ軍のモノだ。
その裏側に蜘蛛の巣状に広がる抵抗陣地はやはり砲台を守っている、砲台は近海に集結しマルセイユに上陸を試みる艦隊に発射されるから上陸を企図する連合軍の遠征機動部隊はその砲台をなるべく早く本隊到着前に潰しておきたい、
だからイギリス軍ならコマンドー、米軍なら陸軍レンジャー部隊、海兵隊などの挺身隊を死角から密かに上陸潜入させて内部から敵の砲隊を壊滅させ砲を破壊してその任務を全うして味方の安全な上陸に貢献する
ドイツ軍はそれらの働きかけをあらゆる方向死角から撃破するための仕掛けをこれでもかというほど成されているのは日本のそれよりも執拗で周到だ。
そりゃそうだ。
↑砲隊のCCP、戦闘指揮所。
そんな危ない連中を揺籠である要塞内に入れてしまえば最後、皆殺しにされてしまうのだから
だがやはり陥落した要塞。
バカでかいクレーターは陸上自衛隊時代に不発弾清掃で入った弾着地域の155mm榴弾砲クレーターよりも更にデカい、恐らく戦艦の艦砲射撃、そうでなければ空爆の500k爆弾。
至近弾でやられた陣地も直撃で粉砕された陣地もあった、そのクレーターは演習場の土質ではない岸壁を工事したモノにも関わらず根こそぎ破壊されていた、砲台にはやはりそこを撃破したい敵の砲撃をやり過ごすバンカー(防空壕)と砲弾保管庫がセットになっていたが流石はドイツ軍の仕事、しっかりと遺構の全容がしっかり残っていた。
そして半島の先端に残る要塞は18世紀のフランス軍の要塞、我らの守備隊が使用している18世紀の要塞と全く同じモノ、我らのモノと違うのは現役故にリフォームされている箇所の後から手の入れられていない完全オリジナルの要塞であった事、床も入り口で抵抗する熱湯や糞便を侵入者にぶっかける落下口まで塞がれずに着いていたのは感動した。
戦後も駐屯部隊がいた様で外壁には増改築の後も見られて門扉も残っていた。
まだ軍用ベッドのマットが山積みされてカビだらけになっていたのは驚いた、写真を撮ろうにも電池切れなのは残念だがまたくるよ。
忘れられた要塞、沢山の人が死んだのは間違いないが気味の悪さではなくそこで亡くなった将兵への敬意だけが溢れて堪らなかったが船の時間が来た、溢れる涙を洗い流す暴風雨の中をフェリー乗り場まで走り抜けてマルセイユへの帰途に着いた。
船着場の周辺のはローマ時代の祠があり村と宿泊施設や飲食店街がある、走って帰って来た私を見て、
「 一体こんな天気の中どこへ行ってたの⁉️ 」
と行きに一緒だったインド人のおばちゃんに英語で聞かれた、天気のせいでレストランで娘と時間を潰したらしい、明日出直すというから要塞の位置を教えてあげた。
でも私ほど楽しめるかどうか。
また行ってこよう。